~明国皇帝に冊封を申し出た偉人~
一、室町幕府成立と足利義満の将軍就任
将軍就任
室町幕府は、開祖である初代の足利尊氏が1336年に「建武式目」を定め、鎌倉幕府に代わる新たな武家政治を始めた時期から始まり(1338年に尊氏は「征夷大将軍」となる)、最後の将軍である第十五代足利義昭が1573年に織田信長によって京都から追放されるまでの237年間続いた。
足利義満(1358-1408)は、室町幕府の第三代将軍である。祖父である足利尊氏が没した直後に生まれている。父親の第二代将軍足利義詮が1367年に37歳で病死したため、翌年の1368年、わずか10歳のときに第三代将軍に就任する。
将軍就任時は、まだ10歳の子供であったため、父・義詮から後を任された管領の細川頼之が実質的には政権運営を担い、幕府の体制強化に努めた。
1378年、20歳になった義満は、京都北小路室町(現在の京都市上京区)に邸宅を建て、そこを政権の中心とした。室町幕府の名称はこれに由来する。その後、義満は、幕府に対抗する守護大名の勢力削減に力を注ぎ、幕府の権威を高めていった。
1392年、義満は、南朝の御亀山天皇(第99代)から北朝の御小松天皇(第100代)に神器を譲り渡すことにより、事実上南朝を終焉させ、南北朝合一を果たす。祖父足利尊氏の時代に始まった南北朝時代は57年間も続いたが、義満が正常な状態に戻すことに成功した。義満の功績は大きい。
建武の新政
さて、南北朝時代について正しく理解するためには、室町幕府の成立前に話を戻してお話する必要がある。朝廷は、鎌倉時代に「大覚寺統」と「持明院統」という二つの勢力が対抗し、当時、天皇の即位には一定の決まり事があり、それぞれの統から交互に天皇を建てるようになっていた。
1318年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位すると、その3年後の1321年に後宇多法皇の院政を廃して朝廷内の実権を掌握する。後醍醐天皇は、密かに討幕計画を練り、反幕府勢力と連携した活動を進めたが、1332年、討幕計画が失敗し隠岐に流刑となる。しかし、その後も反幕府勢力と連絡を続けるなど失敗に屈することなく、ついに1333年4月、足利軍などが京都に攻め入り六波羅探題を壊滅、5月には1336年に新田義貞が鎌倉に攻め入り北条氏による幕府を終焉させた。
1333年6月、後醍醐天皇は「建武中興」を掲げ、天皇中心の専制政治を開始した。「建武の新政」の始まりである。しかしながら、天皇に協力した足利尊氏らは、平安時代に逆戻りするような新政のあり方には距離を置き、建武新政府の成立直後から、後醍醐天皇と足利尊氏との確執が始まり、建武の新政はわずか3年で終焉する。
南北朝時代
1336年、足利尊氏は、上述のとおり建武式目を定め、本格的に武家政治を開始するが、対立する後醍醐天皇の影響力を排除するため、持明院統の光明天皇を擁立する。これを受け、大覚寺統の後醍醐天皇は、自らの正当性を主張されつつ、吉野へと移られることとなり、京都(北朝)と吉野(南朝)のそれぞれで天皇がいらっしゃる状態となった。南北朝時代の始まりである。
南北朝時代の始まりは、室町幕府を開いた足利尊氏が朝廷内の二つの勢力争いをうまく利用したようにも見えるが、その大きな背景となっていたのが、もともと鎌倉時代から続いていた朝廷内の対立に起因する。
この南北朝時代の始まりについては解釈がいろいろと存在するが、足利尊氏と対立する後醍醐天皇が京都で権威を振るっている状況では、天皇から朝敵の烙印を押されてしまい、室町幕府自体の正当性が崩れてしまうことから、朝廷や武家の間での様々な思惑のもとで成立したと言える。言うまでもなく、こうした状況が続くことは決して望ましいことではないため、義満は、祖父が残した負の遺産を見事に清算することに成功したのである。
二、明国の海禁政策と朝貢貿易
明国の海禁政策
1368年、中国大陸では朱元璋が元を倒し天下統一を達成する。明国の始まりである。朱元璋は即位し、太祖洪武帝となる。この年は足利義満が将軍に就任した年である。
当時、海上では「倭寇」と呼ばれる海賊集団が東シナ海を中心に好き放題に勢力を拡大していた。元来、倭寇は、「倭」が示すとおり、日本人の海賊を指す言葉であるが、実際には、日本人が海賊である本来の意味の倭寇は、全体の六分の一から七分の一程度であり、大半は、中国人倭寇であったと言われている。
明国は元を倒し、モンゴル勢力を追い払ったものの、中国北方には国境周辺を脅かす他民族勢力が多く、これらへの対応が忙しかった。
そのため、海上取締りに手が回らないため「海禁政策」を打ち出す。これにより一般の交易は全面的に禁止され、皇帝が認めた「朝貢貿易」のみが許された。
明国は、周辺諸国に対し、朝貢貿易の招諭を行った。1372年、琉球国中山王・察度がこれに応じ、明国と琉球中山国との交易が始まったことについては、琉球王朝の歴史~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~「ニ、朝貢貿易の始まり」で述べたとおりである。察度王の素早い対応は、後の琉球王国における中継貿易を通じた大繁栄の礎となった。
朝貢貿易の仕組み
朝貢貿易の仕組みについては、琉球王朝の歴史~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~「三、朝貢貿易の仕組み」で説明しているが、ここで改めて簡単に言及しよう。まず、朝貢貿易について理解するためには、中国の「冊封体制」に関する知識が肝要である。
「冊封」とは、中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とすることを意味する。「冊封体制」とは、もともとは中国国内の政治関係を示すものであったが、時代が進むとともに、周辺諸国の君主に爵位を与えて藩国と認める仕組みになった。
冊封の「冊」とは、金印とともに与えられる冊命書(任命書)のことを指す。一方「封」とは藩国とすること、すなわち封建することである。冊封された周辺諸国の君主は、中国皇帝に対して職約という義務を負担することが求められる。職約の一つに定期的な「朝貢」がある。「朝貢」とは、諸侯や外国の使いが来朝して、朝廷に貢物を差し出すことである。
したがって、明国が始めた朝貢貿易とは、明国の皇帝が周辺諸国の君主に対し、「冊封に応じれば、朝貢の際に、交易を行うことを許す。」ということを前提に行われる国際交易のことである。第一義には、朝廷に貢物を差し出す朝貢を行うことであるが、その際に、様々な交易品を積み込んで出向き、帰りには、朝廷からの賜り品以外に、様々な中国産品を一緒に持ち帰るという仕組みである。
琉球国においては、当時中山王であった察度が明国の太祖洪武帝の招諭に素早く応じ、弟の泰期を王の名代として派遣し、皇帝からの冊封を受けることで朝貢貿易を行うことが認められた。
三、日明貿易開始に向けた挑戦
義満の官職等の変遷
1394年、南北朝合一を実現した義満は、将軍職を子の義持に譲り、自らは太政大臣となる。しかし、事実上、将軍としての実権は、義満が握った状態であった。義満は、将軍在職中においても朝廷からの官職や称号を受けており、1382年に左大臣、翌1383年に准三后(じゅさんごう)の宣下を受けている。
准三后とは「太皇太后、皇太后、皇后の三后(または三宮(さんぐう)という。)に准ずる待遇を与えられた者」に授けられた称号である。871年に清和天皇の外祖父・藤原良房(よしふさ)が最初にその称号を受けた。最初は天皇との姻戚関係に基づく称号であったが、のちにその意味合いは薄れていく。わかりやすく言えば、先々代の皇后様、先代の皇后様、今の皇后様に準ずる特別な待遇の人という意味だ。この准三后という称号は、のちに日明貿易を開始する上で、重要なカギとなる。
1395年、義満は、太政大臣を辞めて出家する。官職を辞め、出家すると聞くと「隠居」や「引退」のような印象を持つかもしれないが、そうではない。当時は、寺社の力が強く、高い権威を有していたたことに対抗するためのものである。
義満は、征夷大将軍として武家の棟梁となり、幕府に対抗する守護大名の勢力削減に力を注ぎ、幕府の権威を高め、それを息子に譲る。次に太政大臣という高い官職を朝廷から受けるが、結局は天皇の臣下であることには変わりないので、さらに上を見て、自由な立場で権勢を振うことを目指し、出家したのである。出家して「道義」と名乗る。天皇の臣下ではない、自由な立場を得た准三后という称号を持つ立場は、のちに日明貿易を開始する上で、重要なカギとなる。
義満の挑戦
義満は、若い時から明国に関心が強く、明国との交易を強く望んでいた。日本と中国との間の交易は、元寇以降、途絶えたままであった。万国津梁之鐘~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~「五、中継貿易が飛躍的に発展した背景」で説明したとおり、日中間の交易は、主に琉球王国が営む中継貿易を介して貿易が行われていた。明国との直接交易の実権を幕府が握れば、莫大な富を手に入れることが可能となることから、義満にとって明国との交易再開は大きな政策課題であった。
1374年、義満は、明国に使者を派遣し、幕府との間で交易開始を試みるが、朝貢貿易の開始は冊封を受けることが原則であり、冊封は、中国の皇帝が周辺諸国の「君主」に爵位を与えてこれを藩国とすることを意味するため、君主の臣下とは交渉しないとの明国側の方針のもとで失敗に終わる。
1380年、義満は、再度交渉を試みる。このときは「日本国征夷将軍源義満」の名義で交渉を始めたが、結局は、天皇の家臣との交渉は受けない等の理由で拒否された。
義満が幕府による正式な日明貿易の開始に挑戦する中、実は、日本と明国との間において、全く交易が行われていなかったわけではない。西国の守護大名らによって私的な交易は行われていた。
1399年、義満は、私的な海外貿易で力を振う中国地方の大内義弘を滅ぼし(応永の乱)、日明貿易の開始に向けた環境も整え、さらに取り組みを加速していく。
北山文化
さて、少し話は変わるが、義満は、日明貿易開始に向けた挑戦を進めながら、室町時代の文化の面でも大きな役割を果たしている。
1397年、義満は、京都北山に莫大な費用を投じて荘厳な別荘「金閣」を建てる。現在、金閣寺として知られる建造物である。2年後の1399年、別荘が完成した義満は北山で政務を行い、独自の文化「北山文化」を発展させていく。
四、日本国王として冊封された義満
勘合貿易の開始
1401年、義満は「日本国准三后源道義」と名乗り、僧侶の祖阿(そあ)と博多商人の肥富 (こいつみ) を使節として明国に派遣する。「日本国准三后源道義」の意味するところは、以下のとおりである。
- 「准三后」というのは、官職ではなく称号であり、天皇の臣下ではないこと
- 「准三后」という人は、太皇太后、皇太后、皇后の三后に准ずる待遇の人というを指しており、つまり、天皇の祖母や母に当たる人に準ずる人であり、天皇自身も気を使ったり、敬ったりする人(例えば、平安時代の清和天皇の外祖父・藤原良房のような人と同等な処遇にある人)であること
- 「源道義」と名乗る義満が政治の実権を握り、天皇に代わって政務を担っているのは事実であること
これを受け、明国の第二代皇帝・建文帝から日本国の君主として認められることとなる。翌年1402年に、明国から詔書には「日本国王源道義」と記され、また、義満自身も「日本国王臣源」として返書を送り、明の冊封を受けた。「冊封体制」の成立である。
1404年、日本と明国との間で「勘合貿易」が始まる。明国が朝貢船の真偽を確かめるために勘合符と呼ばれる割符を発行し、外国に分け与えたことから、日明貿易のことを勘合貿易と呼ぶ。義満は、明に要請されて倭寇の鎮圧も実施している。
批判の大きかった義満の冊封行為
足利義満は、念願であった日明貿易を開始することに成功し、その交易により大きな利益と富を国内ももたらした。
ちなみに、大繁栄を極めていた琉球王国の中継貿易は、この日明貿易の開始とポルトガル船の登場による、いわゆる南蛮貿易の影響を受けて大きく衰退した。このことからも義満が始めた交易がもたらした経済的価値は極めて大きかったことがわかる。
しかしながら、明国皇帝から義満が冊封を受けたことに対しては、当時、朝廷の公家、僧侶のみならず、家臣の武士達からも批判的な意見が多数あったと言われている。日本には天皇を中心とする朝廷が存在するので、「日本国王源道義」として明国から詔書を受け取り、自らも「日本国王臣源」として返書を出すという一連の行為を見て「これはおかしい。」として批判的な意見が出るのは当然であろう。
1408年、義満が死去した後、息子の第4代将軍・足利義持が実権を握り、1411年、日明貿易を止めてしまう。義持は、幼くして将軍に就任するが、実質的な権限はすべて父親の義満が握っており、傀儡に過ぎなかった。成長するにつれて、父親に反目し、関係は悪化していたと伝わるので、この冊封はおかしいとして批判的な意見が多数あったことも後押して止めてしまったものである。
それ以降、約20年間、勘合貿易は中断するが、第6代足利義教のときに再開する。貿易のもららす富は必要不可欠との考えに基づいた判断であったものと思われる。このように、室町時代においても、日明貿易のあり方には大いに議論があり、何を優先するべきかで考えが二分されていたものと思われる。
五、冊封とは何か
華夷思想
義満が明国皇帝から冊封を受けたことについて言及する前に、ここでもう一度、「冊封とは何か」を確かめたい。
中国の思想を説明する際に、よく用いられている言葉に「中華思想」というものがある。 フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」で調べると、次のような説明が出ていた。
中華思想(ちゅうかしそう)は中華が天下(世界)の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する思想・価値観・道徳秩序を指す。漢民族が古くから持っていた自民族中心主義である。
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」
しかしながら、「中華思想」というのは主として日本学界の用語であり、実際に中国人に「中華思想についての考え方は?」と聞いても通じない。中国では「華夷思想」として認識されているからだ。
「華夷思想」においては、中華とは「華(文明)の中」を指し、「華」は 『文明圏』を意味する儒教的価値観である。対比となる「夷」は 『非文明』を意味し、「華の外は夷(蛮)」、つまり『野蛮国』に位置付ける。日本で知られる「中華思想」とは少し違う。
世界史を学ぶと最初に「世界四大文明」の話が出て来る。メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明の4つだ。中華とは「華(文明)の中」を指し、「華」は 『文明圏』を意味する儒教的価値観であると説明したが、四大文明の話は誰も異論がない客観的な事実なので、要するにこの儒教的価値観というものは、中国文明が発祥した場所において大局的に歴史上の客観的な事実を述べているだけであり、実は、何の違和感もないことである。
中華世界の責務
さて、「中華」に関連し、周辺諸国を示す言葉に「四夷」というものがある。
- 東夷(とうい):古代は中国大陸沿岸部、後に日本・朝鮮などの東方諸国
- 西戎(せいじゅう):所謂西域と呼ばれた諸国など
- 北狄(ほくてき):匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古など北方諸国
- 南蛮(なんばん):ベトナム・カンボジア等東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人など
これらの言葉の一部は、日本でも使われている。関東・東北などの東国には、京都からみると東夷が住んでいる場所とされ、これらを制圧する任務の命を受けた人を「征夷大将軍」という。東にいる「夷」を征する人だ。また、鉄砲伝来以降、南方からやって来る外国人を南蛮人と呼んだ。つまり、中国から伝来した言葉を日本の地理的位置に置き換えて使っている。
儒教の教えでは、「四夷」は中華文明の影響と恩恵を受けていない「化外の民」であり、この民を教化して中華文明の世界へ導くことが中華世界の責務であると考えられていた。すなわち、「華の外は夷(蛮)」と位置付ける「華夷思想」は、いわゆる「中華思想」とは違う。先ほどは「少し違う」と書いたがここまでの説明をご覧いただくと「かなり違う」ことに気づかれたかと思う。
冊封とは
さて、前置きが長くなったが、「冊封とは何か」を確かめるには、正しい理解が必要不可欠なので、少し遠回りしたが、ここで改めて「冊封」について考えてみたい。
「冊封」とは、中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とすることである。「冊封体制」とは、もともとは中国国内の政治関係を示すものであったが、中国周辺諸国を視野に入れた国際関係に使用するようになったのは、国内体制の外延部分として重要な機能をもつと理解されたからである。
「冊封」の「冊」とはその際に金印とともに与えられる冊命書(任命書)のことを指す。「封」とは藩国とすること、すなわち封建することである。「封建」について調べてみると次のように説明されている。
(封土を分割して諸侯を建てるの意) 天子・皇帝・国王などの公領以外の土地を諸侯に分け与えてそれぞれ領有させること。また、その制度。封建制度。
コトバンク 精選版 日本国語大辞典「封建」の解説より
「封建」とは、本来、封土を分割して諸侯を建てることを意味しているが、中国皇帝が行う「冊封」では、土地を分け与えてもらっているわけではないので、周辺諸国の人々は誰もが「あくまでも儀礼上のことである」と知っていたところが重要である。
さて、「冊封」された諸国の君主は中国皇帝に対して職約という義務を負担する。職約の一つに定期的な「朝貢」が求められた。「朝貢」とは、諸侯や外国の使いが来朝して、朝廷に貢物を差し出すことである。
「貢物を差し出す」と聞くと、主従の関係があり、従属して屈していると指摘する人もいるかもしれないが、儒教の教えでは、「華夷思想」は、化外の民を教化して中華文明の世界へ導くことが中華世界の責務であるとの考えに基づく。したがって、朝貢の際には、中国皇帝に対して貢物を差し出すことを求める一方で、皇帝から供されるものは非常に多くあった。ちなみに、中継貿易で大繁栄を極めた琉球王国は、自前で進貢船を準備できないので、明国から供されたものを使用していた。
古来、日本における冊封の歴史を見てみると、3世紀、邪馬台国の女王卑弥呼が魏王朝から親魏倭王に封ぜられて金印を受け、冊封体制へ編入されている。これについては誰もが特段の異論はないところであるが、よく考えると、邪馬台国の女王は、中国皇帝から土地を分け与えてもらってはおらず、形式的な認証を受けるといった意味合いのものであったと理解される。
義満の行動について
足利義満が明の永楽帝から日本国王に冊封されたことについては、批判が続出したが、義満が誤りで、勘合貿易を止めた義持や批判した人々が正しいと整理するべきなのだろうか?
筆者の思うところを整理すると、冊封体制は、儀礼的な色彩が強く、明国が主張する交易を開始する条件として冊封を受け入れることについては、伝統的な儒教の考え方に一定の理解を示せば、相手の主張をある程度受け入れても、実益を得るにはやむを得ないと判断した義満の考え方に問題は特になかったと考える。
むしろ、正論を振りかざして、義満がいろいろと創意工夫の中で繰り返し挑戦して、やっと実現したことに対して、全否定する人たちの方に問題を感じる。単に正論を振りかざすだけで、人々の暮らしがよくなる方向へ導こうとしなければ意味がない。特に、正論から外れることを嫌い、何もしようとはしない人たちにこそ、問題があると思う。
六、終わりに
神部龍章の部屋で掲載中の短編歴史物エッセイ「老中阿部正弘と大老井伊直弼~二人の米国人に対抗した日本の偉人たち~」においては「大老井伊直弼は、横浜開港に貢献した偉人である。」と評した。
実際、井伊直弼は、明治新政府の人たちによって、安政の大獄を実行した悪者としてのレッテルを貼られてしまい、これまで正統に評価されていないように感じるが、横浜開港に貢献した偉人である点は間違いない。特に、ハリス総領事という強大な相手に対して怯むことなく、横浜を神奈川と称して、港が発展する礎を作ったのは事実である。
今回も、賛否の多いテーマに挑戦してみた。足利義満は、15代続いた室町幕府の中で、最も将軍の権威を高め、安定した世の中を作り上げた。その功績は多岐にわたり、南北朝合一、北山文化の発展に加え、今回のテーマである「勘合貿易の開始」など多数ある。
日本史の授業では「勘合符を用いた勘合貿易が室町時代に始まりました。」と習うだけなので、義満が何度も交易開始を目指して挑戦したことを知っている人は少ないと思う。そもそも、足利義満は時代劇などでもほとんど登場しない。やはり、「日本国王源道義」として明国から詔書を受け取り、自らも「日本国王臣源」として返書を出しているところが嫌われているのかもしれない。
しかしながら、私は「歴史を学ぶのは、先人たちのご活躍やご苦労に思いを馳せつつ、自分たちの未来について考えるときに、積み重ねられてきた学ぶべきところをいかに活かしていくか。」というところに醍醐味があると思っている。
先日、日中国交正常化50年を迎え、田中角栄氏の特集番組を見た。この方も「正論を振りかざすのが大好きな方々から批判を受ける的になっているような人」だと思うが、番組の最後に、MCが「最近の政治家には彼のような胆力を持った人材がいない。」と憂いていたのが興味深かった。確かにそうだ。日本は「正論をかざして人を批判するのが大好きな人たちの集団」になってはならないと感じる。そのような国に明るい未来はない。
最後に、国というのは、引っ越したいと思っても、絶対に引っ越すことができない一戸建てのマイホームに住んでいるようなものだ。隣人たちを嫌い、気の合う遠くの友人たちばかりと連絡を取り合うだけでは、近所付き合いはうまくいかないように思う。
最期までご覧いただき、誠に有難うございました。
次の作品は「女性天皇と女系天皇」【前編:女性天皇】です。
またこの他に、ビジネス英語講座、中国語講座、RPA講座もございます。引き続き、ご覧いただければ幸いです。
神部龍章の部屋からのご案内