~二人の米国人に対抗した日本の偉人たち~
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一、ペリー提督来航
嘉永六年六月三日(新暦:一八五三年七月八日)(注:元号表示は、新暦の使用が始まる明治五年十二月三日までは旧暦を、西暦表示は新暦を示す。以下同じ。)、米国東インド艦隊司令長官のペリー提督(マシュー・カルプレイス・ペリー)が率いる黒船四隻が浦賀沖に現れた。ペリー来航である。
フィルモア大統領から日本皇帝(将軍)宛ての国書(親書)を持参していた。この大統領の親書には、「友好を結び、通商を提案するためにペリー提督を日本に派遣した」と書いてあり、具体的には、通商、海難救助、薪水の補給を求めた。
フィルモア大統領とは、米国の第十三代大統領で、ミラード・フィルモアという。彼は、第十二代大統領ザカリー・テイラーのもとで、副大統領を務めていたが、一八五〇年七月九日、コレラによりテイラー大統領が死去したことを受け、大統領に就任した(任期は同日から一八五三年三月四日まで)。
米国は、一八四八年に終結した米墨戦争でメキシコに勝利し、太平洋側へと領土を拡大したことから、太平洋への進出、清国との交易などが視野に入っていた。
フィルモア大統領は、就任後、国内では大陸横断鉄道の建設に向けて尽力するとともに、清国との交易に関し、補給場として適した日本を抑えておきたいとの考えからペリー提督に国書を持たせて日本へと派遣したと言われる。
二、来航ルート
ペリー艦隊は、旗艦の「サスケハナ号」のほか、「ミシシッピ号」、「サラトガ号」及び「プリマス号」の四隻であった。サスケハナの名称は、ペンシルベニア州の川の名前から命名された。
さて、米国から艦隊が日本の浦賀沖にやってきたと聞くと、太平洋を横断してきたと思う方もいらっしゃるかもしれないが、そうではない。
上述のとおり、米墨戦争でカリフォルニアなど太平洋側の領土を拡大したところであり、軍の拠点は東の大西洋側にあった。一八五二年十一月二四日、バージニア州のノーフォーク港を出港し、大西洋からケープタウンを経由し、翌年三月にシンガポール、四月に香港、五月に上海へと艦隊を進めた。
一八五三年五月二六日、上海を出発したペリー艦隊は、那覇港に入港する。そして、六月六日、琉球王国の首里城を訪問する。浦賀沖に艦隊が現れる前に、琉球に先に行っていたのである。琉球王国は、首里城北殿(迎賓館)においてペリー提督一行を盛大にもてなした。
当時、琉球王国は、第二尚氏第十九代の尚泰王(琉球王国最後の国王)であった。一八四八年、彼はわずか六歳で即位したため、ペリー提督が那覇にやって来たときもまだ十一歳の子供であった。明治時代になり、明治政府による琉球処分の結果、一八七九年、王国廃止と沖縄県の設置が行われたことから、尚泰王は琉球王国最後の王となる。
なお、琉球王国は、一四二九年、尚巴志によって建国されたが、第一尚氏王朝第七代尚徳王死去の後、王国の有力家臣であった「金丸」が尚氏(尚円王)を名乗り、継承したことから、尚円王以降は第二尚氏王朝と呼ばれる。
さて、ペリーは、東アジアへの重要拠点である琉球を開国させ、蒸気船に必要な石炭の補給基地の建設や米国船への物資の補給を行えるようにする思惑があり、首里城を訪問した。
一方の琉球王国は、明国や清国との間で朝貢貿易を行い、中国大陸からやってくる「冊封使」一行をもてなすなど、外国からの使節団対応にも慣れており、ペリー応接の際には、まだ幼い尚泰王は姿を見せず、老練な摂政が対応したと伝わる。首里城正殿には招き入れず、迎賓館の北殿にて対応した。
三、老中阿部正弘の対応
ペリー艦隊が浦賀沖に現れた三日後の嘉永六年六月六日、老中首座・阿部正弘は、避戦を最優先とし、米国大統領からの国書の受取りを決定した。
海外元首から外交的な色彩が強い親書を受理することは鎖国の方針に抵触するが、当時、幕府は財政難であり、海防の強化が不十分であるとの判断による。
幕府は、長崎のオランダ商館長から定期的に海外情勢の情報を得ており、アヘン戦争の結末なども十分に承知していたものと思われる。
同年六月九日、ペリー提督一行は、久里浜に上陸し浦賀奉行に国書を渡した。
阿部正弘は、備後国福山藩第七代藩主であり、天保十四年、二五歳で老中就任し、その二年後には老中首座に就く。ペリーが浦賀沖に現れたときは三五歳であった。
彼は、国書の受領後、米国大統領国書を朝廷に報告し、諸大名の意見を聞いて対応しようとしたが、これは、朝廷を現実政治の場に引き出し、その権威を高める結果を招くとともに、幕府政治について諸大名から意見を言う機会を与えることになり、幕府の専制的な政治運営を転換させるきっかけとなってしまう。
四、日米和親条約締結
嘉永七年一月十六日、ペリーは艦隊七隻で相模湾に再来航した。ペリーは、江戸に入ることを主張するが、一方、幕府は浦賀を応接の地とすることを主張した。ペリーが交渉の途中に東京湾へ艦隊を移動し、神奈川の前湾へ投錨したため、幕府は、やむなく、神奈川宿近くの横浜村を応接の地とすることを決定した。同年二月十日、ペリーは横浜上陸した。
横浜が主要な歴史の舞台に最初に登場するときが訪れた。場所は、現在、横浜税関と横浜開港資料館が立っているあたりだ。横浜開港資料館には、ペリーの横浜上陸図が残されており、資料には現在の資料館中庭に繁る玉楠木の前身とされる木も描かれている。
嘉永七年三月、全十二か条からなる「日米和親条約」(神奈川条約)が締結された。両国の和親、薪水・食料・石炭その他欠乏品の供給のため、下田と箱館(現在の函館)の二港が開港された。また、同年五月、和親条約の細則を定めた全十三か条からなる下田条約も締結された。一連の役目を果たしたペリー艦隊は、嘉永七年六月一日、米国へ帰国した。
老中阿部正弘は、ペリー来航から日米和親条約締結に至る歴史的難局を乗り切ったが、安政四年、わずか三九歳のときに急病で死去した。過剰な心労が祟ったものと思われる。彼は若くして歴史的難局を乗り切った偉人である。
ペリー提督による日本側との交渉の姿を見ると、武力で威嚇しつつ、与えられた任務を速やかに実行し、用務が終われば、さっさと引き上げるという軍人らしい合理的な様子がうかがえる。彼は、艦隊を率いる優れた司令長官であったことがわかる。
ペリー来航は、フィルモア大統領からの将軍宛ての国書を渡す目的で実行され、これが江戸幕府の鎖国体制を終焉させる訳であるが、それは、大統領や提督の個々の思惑によるものではなく、米国全体の動きという世の中の大きな流れの中で進められた結果であるところが興味深い。
五、ハリス総領事の就任と将軍接見
日米和親条約の締結を踏まえ、安政三年七月二十一日、タウンゼント・ハリス(一八〇四年~一八七八年)が在下田米国総領事として来日した。そのとき、ハリスは五十一歳。
ハリスは清国などアジアを中心に貿易業を営んでいたが、下田に来る二年前、自らの経験や知識を政府に売り込み、働きかけを行い中国・寧波の領事に任命される。
その後、一旦米国に帰国していたが、日米和親条約締結の話を聞き、今後は、下田総領事の就任を希望し実現させた。野心家で雄弁であったと想像できる。
さて、ハリスが下田に到着した当初、幕府は総領事の駐在を認めようとせず、日米両者間で異なる主張を行うが、ハリスの強硬な姿勢に押され、玉泉寺を仮の宿舎とすることで合意し、同年八月六日、星条旗が掲げられ、在下田米国総領事館となった。雄弁なハリスの本領発揮である。
下田総領事として着任したハリスは、江戸城に登城し、将軍接見を要求する。安政四年十月二十一日、ハリス総領事の江戸城での将軍接見が実現する。その時の将軍は第十三代徳川家定であった。ハリスは、将軍に拝謁し国書を手交した。日米間で自由通商を開始することを求めるものである。
ここでもハリスの雄弁さが発揮され、強硬な主張を展開する。幕府においては米国との自由通商はやむを得ないとの雰囲気が醸成され、筆頭老中の堀田正睦(ほった まさよし)は、条約交渉を開始する。
堀田正睦は、下総国佐倉藩第五代藩主で、天保十二年、三十一歳で老中就任する。老中・水野忠邦が天保の改革と呼ばれる取組みを行っているときだ。
水野忠邦の失脚後、天保十四年、自ら老中を辞職するが、本稿前編で登場した阿部正弘に誘われ、安政二年、老中再任される。
しかしながら、阿部正弘の急死により、自らが下田総領事ハリスが要求する自由通商の交渉事の矢面に立つこととなる。風貌からお人柄が伺えるが、かなり荷が重かったものと思われる。
六、通商条約の交渉
安政四年十二月十一日、条約交渉が始まった。老中首座堀田正睦は、下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震を交渉担当とした。
井上清直(いのうえ きおなお)(一ハ〇九年~一ハ六七年)は、老中阿部正弘に抜擢され、勘定吟味役を経て、下田奉行に就任した。幕末において、交渉力が優れた外交官として活躍した。
岩瀬忠震(いわせ ただなり)(一ハ一八年~一八六一年)も奉行の井上と同様に、老中阿部正弘に見出された人物である。積極的な開国論者であり、後に外国奉行などを歴任した。
また、岩瀬は、貿易取調御用を命じられていた際に、老中堀田正睦への意見書の中で横浜開港を主張している。彼は、歴史上有名な人物とは言えない方かもしれないが、日本で初めて横浜開港を起案した者であり、正に横浜開港に大きな貢献をした偉人である。
さて、下田での自由通商の交渉においては、ハリスから条約草案が出されている。ハリスの条約草案では、すでに開港済みの下田と箱館のほか、大坂、長崎、平戸、京都、江戸及び品川を開港・開市することが書かれていた(下田は江戸・品川の開港後閉鎖)。この草案には、神奈川や横浜は候補地に含まれていなかったのである。
条約交渉が進む中、「神奈川の開港」が明記されるに至る。将軍のお膝元である江戸から少しでも離れた場所という幕府の思惑もあり、粘り強く交渉を重ねて神奈川というところまでは双方の折り合いがついた。しかし、幕府にとっては神奈川湊もまた多々問題があった。
- 神奈川湊は、遠浅で良港の条件を備えていないこと。そもそも、港ではなくて「湊」と書かれているとおり、大きな港ではなかった。
- 神奈川宿付近は、外国人居留地を開設するだけの広さがないこと。実際、横浜港の開港とともに、多数の外国人商館が建設されるなど、広い土地は必要不可欠であった。
- 東海道沿いにあり、交通の要衝で取締上問題がある。安政の五か国条約が結ばれたのち、文久二年(一ハ六二年)、生麦事件(薩摩藩主・島津久光の行列の前に騎乗のままの四名の英国人が現れ、この行為を無礼として同藩士が切りかかり、一名死亡・二名重傷を負わせた事件)が発生しており、幕府の懸念は当たっていた。
そこで幕府側は、神奈川ではなく「横浜開港」案を交渉を図るが、一方、ハリスは強く反対した。ハリスは次のように考えていた。
- 神奈川は、江戸に一番近い港であり、江戸が外国貿易のために開かれるときには、大切な場所となるに違いないこと。
- 神奈川は、非常には反映する町の様相を呈しているが、一方で横浜村は全くそうではないこと。
- 横浜で行う貿易の発展性に疑問、横浜の出島化を警戒。
- 横浜村も神奈川湾の中にあるのだから、横浜を開くならば、神奈川がメインとなり、横浜は付け足し程度。
結局、条約交渉は全15回に及び、ようやく双方の合意が得られるが、その結果は大老井伊直弼の登場によって大胆な対応策が講じられ、ハリスの強硬な姿勢で相手を圧倒する得意技が通じなかったのである。
七、大老井伊直弼登場
老中堀田正睦は、下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震を交渉担当として、ハリス総領事との交渉を開始した翌年の安政五年二月九日、自ら上京し、参内して日米修好通商条約草案を示した。通商条約の締結は国の一大事であるため、天皇の勅許を得るためである。
そのときの天皇は「孝明天皇」、第百二十一代天皇で明治天皇の父親である。生涯を通じて平安京で過ごした最後の天皇となられた。孝明天皇は、数百年の伝統を破り、自ら口を開き、条約への反対を唱えられた。この行動は大きな影響力があった。堀田正睦は条約勅許獲得に失敗し、四月二十一日に江戸城へ戻る。
老中堀田正睦は、自身ではこの難局に対応できないと考え、第13代将軍・徳川家定に福井藩主・松平慶永(まつだいら よしなが)を大老に推挙した。松平慶永は、越前国福井藩第十六代藩主。通称の松平春嶽(まつだいら しゅんがく)といったほうが馴染み深いかもしれない。幕末に開けた考え方を持つ大名で、時代劇でもよく登場する人物だ。
将軍徳川家定は、病弱で、政治的手腕を発揮できる人物ではなく、老中阿部正弘らが自身によくわからない話をするばかりで疎外感を強く感じていた。そのため、家定は「家柄からも人柄からも大老は掃部頭(かもんのかみ、井伊直弼)しかいない」とした。大老井伊直弼の登場である。
安政五年四月二十三日、井伊直弼(一ハ一五年~一ハ六〇年)が大老に就任する。四十三歳であった。
大老井伊直弼は、近江国彦根藩第十五代藩主で、就任後「安政の大獄」と呼ばれる厳しい取締りを行ったことで有名だ。
長州藩の吉田松陰や越前藩の橋本左内などを投獄し処刑したことから、これまでは時代劇でも悪役として演じられるほうが多い人物である。
余談ながら、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」では、俳優の草彅剛氏が徳川慶喜役を好演したと評判になった。徳川慶喜という人物はこんな人だったのだろうと思わせる好演であった。草彅氏ほどは注目されていなかったが、井伊直弼役に俳優の岸谷五朗氏が好演していた。本当はこんな感じの人物だったように感じる。
大老に就任した井伊直弼は、安政五年六月に老中堀田正睦を罷免する。罷免の大義名分は条約勅許獲得の失敗であるが、当時徳川家定の次の将軍候補として、紀州徳川慶福(のちの第十四代将軍)を推挙する紀州派と一橋慶喜(のちの第十五代将軍)を推す一橋派との権力闘争があり、紀州派の井伊直弼が一橋派の堀田正睦を体よく失脚させたと言われている。
さて、下田でのハリス総領事との交渉もいよいよ大詰めとなり、下田奉行らの報告を聴取し、交渉の方向性を決断する必要性に迫られていた幕府は、安政五年六月十八日、幕閣会議を開催する。
会議にて井伊直弼は「勅許を得てからの条約調印」を主張したが、その一方で「已むを得ざれば、是非に及ばず」と下田奉行井上清直と岩瀬忠震に答えた。井伊直弼は天皇や朝廷の意向を気にかけていたが、現実的な判断をやむを得ず行ったというところが妥当な評価ではないだろうか。
幕閣会議での大老による「已むを得ざれば、是非に及ばず」の発言を受け、翌日の六月十九日、日米修好通商条約が締結された。日本の本格的な国際貿易の幕開けである。
八、横浜開港に貢献した偉人
日米修好通商条約においては、神奈川、長崎、箱館、新潟及び兵庫が開港されると記された。しかし、大老井伊直弼は「横浜のみを開港」する方針で幕府内意見を総括し、一方的に横浜開港の準備を進め、強引に、かつ、なし崩し的に既成事実化を進めた。
ハリスの主張は変わらず、横浜開港には反対をつづけたが、来日した外国商人たちは、大型船舶が停泊できる横浜開港場に商館を次々と建設したのである。これを受け後に各国代表も結局は、総領事館を横浜に移転することとなる。
安政六年六月二日、横浜港が開港され、現在の横浜税関の前身となる神奈川運上所が設置された。現在のみなとみらい線日本大通り駅の近くだ。まぎれもなく横浜港に設置しているが名称は神奈川としたところが興味深い。
ハリスは、安政六年六月八日、江戸元麻布の善福寺に公使館を設置し、初代公使となった。しかし、神奈川か、横浜かという駆け引きは、大老井伊直弼に軍配が上がり、ハリスの主張は実現しなかった。
井伊直弼が用いた、強引に、なし崩し的に既成事実化を進める手法については、好き嫌いや賛否があるところだが、着目すべき点は、こうした手法は外交上の常とう手段であるという点だ。
ところで、日米修好通商条約について、ネット検索してみると次のような興味深い記述があった。
この条約は、アロー戦争で清国を破ったイギリス・フランスの大艦隊がそのまま日本に来航して通商条約の締結を迫る、とのハリスからの情報に大老井伊直弼が恐れ、鎖国主義の孝明天皇の勅許を待たずに調印に踏み切ったもので、2年後の桜田門外の変をはじめ尊王攘夷運動の台頭と幕末維新の激しい政争の展開の契機ともなった。
出典:コトバンク
日本大百科全書(ニッポニカ)「日米修好通商条約」の解説より
この解説を読むと「ハリスに脅かされた井伊直弼が恐れをいだき、天皇の勅許を待たずに調印に踏み切った」と書かれているように思うが、改めて考察してみると「それでは彼はどうすればよかったのか?」と聞きたくなるが、おそらく誰も答えない。
世の中の事柄には、トレードオフ、つまり、両立し得ない関係性が「表裏一体」となっているものが多くあり、一方をとると他方を失うということはよくある。こちらを立てれば、あちらが立たずということだ。こうした問題について、表の部分だけを述べ、裏の部分を決して述べない「話術」を多用する人がこの国には多いと感じる。それが日本の弱点だ。(神部龍章の部屋「時事コラム~言葉の伝達」のコーナーで『表裏一体の「表」だけ述べる話術』を掲載したので興味のある方はご覧いただければ幸いである。)
井伊直弼は、神奈川開港の名の下、「横浜のみ開港」を実現しており、正に横浜開港に大きく貢献した偉人である。
JR桜木町駅から徒歩で十分くらいの場所に「掃部山公園」というところがあり、そこに井伊直弼の銅像が立っており、今でも横浜港を見守っている。横浜を訪れたときにお時間があればお立ち寄りされることをお勧めしたい。
最後までご覧いただき、誠に有難うございました。
次の作品は「万国津梁之鐘~国際貿易で繁栄を極めた琉球王国~」です。続きをご覧ください!
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