短編歴史物エッセイ

邪馬台国の場所を探る❹

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邪馬台国の場所を探る❹
邪馬台国の場所を探る❹

「魏志倭人伝」に詳細に記載されている倭人の生活習慣や倭国の自然、そして諸国を観察する様子に触れた後、いよいよ「卑弥呼」が登場します。親魏倭王「卑彌呼」への「みことのり」、下賜された品々とそれらの意義、正始元年以降の出来事を経て、正始8年(西暦247年)卑弥呼が死亡します。そして、最後は彼女の死後の様子が描かれています。

邪馬台国の場所を探る❸
邪馬台国の場所を探る❸

「魏志倭人伝」に書かれた内容を吟味するには、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえる必要があります。ある一節の中で「邪馬台国」の場所を書き表していたのです。これを読み解くには、きちんと中国古代の歴史故事を踏まえつつ、後漢の時代には確立していた「周碑算経」の中に登場する「一寸千里法」を使えば解決できるものだったのです。

邪馬台国の場所を探る❷
邪馬台国の場所を探る❷

「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。」(女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。)、原文から謎を解く。作者の意図を読むことが肝要。「すぐには行くことができない遠く離れたところにある国々というのは女王国に属する国々ではない。」

邪馬台国の場所を探る❶
邪馬台国の場所を探る❶

「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫ります。後漢の時代にすでに完成していた「周碑算経」という朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書の原文が示す方法「1寸千里法」等を用い、魏志倭人伝の距離・方位を正確に検証し、邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチ!

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~倭人の生活習慣・倭国の自然と卑弥呼登場~

 皆さま、こんにちは。神部龍章です。「邪馬台国の場所を探る」の第4回目です。本シリーズにおいては、短編歴史物エッセイ作家と教育コンサルタントの観点から、「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参ります。

 前回の第3回では、邪馬壹國の位置に関する古代歴史故事を確認しながら、「魏志倭人伝」の原文に沿って邪馬台国の位置について言及し、それは「九州の鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけての箇所に存在した」と結論付けることができる旨の説明までを行いました。今回は、その続きです。「魏志倭人伝」に詳細に記載されている倭人の生活習慣や倭国の自然、そして諸国を観察する様子に触れた後、いよいよ「卑弥呼」が登場します。邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチを存分にお楽しみください!

8.倭人の生活習慣と倭国の自然

(1)倭人の衣服

其風俗不淫、男子皆露紒、以木緜招頭、其衣横幅、但結束相連、略無縫、婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(陳壽)底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店(1951(昭和26)年11月5日第1刷発行、1983(昭和58)年9月10日第42刷発行)、底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本

 その風俗は淫らではありません。男子は、皆、髷(まげ)を露(あら)わにし、木綿の布を頭に巻いています。その衣服は、幅広い布を結び合わせており、ほとんど縫われていません。婦人は、髪に被り物をし、後ろで束ね、衣服は、単衣(ひとえ)のように作られ、中央に孔をあけ、貫頭衣(かんとうい)という原始的な衣服です。

 「貫頭衣(かんとうい)」は、右図のような衣類で、布を二枚縫い合わせて頭と腕を出す穴のみ縫い残した身二幅の衣装だったのではないかと言われています。

(2)倭国の農業・動物・武器・気候と倭人の生活習慣

種禾稻紵麻蠶桑、緝績出細紵縑緜、其地無牛馬虎豹羊鵲、兵用矛盾木弓、木弓短下長上、竹箭或鐵鏃、或骨鏃、所有無與儋耳朱崖同。倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣、有屋室、父母兄弟卧息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也、食飲用籩豆手食。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
 ①倭国の農業・動物・武器

 稲、紵(からむし)、麻を植え、桑と蚕を育て、糸を紡いで上質の絹織物を作っています。牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいません。兵器は矛・盾・木弓を用います。木弓は、下が短く、上が長い。矢は、竹で矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いています。

 「紵(からむし)」は、イラクサ科の多年草。薬用植物として用いられます。

 「鵲(かささぎ)」は、日本各地でその繁殖が確認されていますが、九州各地では繁殖や生殖が確認されており、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県で繁殖が記録されているほか、宮崎県、鹿児島県でも生息が確認されています。一方で、九州から東方へ瀬戸内海へと進み、近畿地方までのあたりで見ると、愛媛県で繁殖、兵庫県で生息が確認されていますが、瀬戸内地方には連続して繁殖・生息はしておらず、点在しているような印象です。当時も同様の繁殖・生息状況であったかどうかまではわかりませんが、使節団がどこで「鵲(かささぎ)」を見たのかを考えると、九州で観察したことを書き留めていると考えるほうが自然だと思います。

 ➁倭国の気候と倭人の生活習慣

 倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べています。皆、裸足です。家屋があり、父母兄弟の寝床は別です。身体に朱丹(しゅたん)を塗っており、まるで中国で用いる白粉(おしろい)のようです。飲食は、籩豆(へんとう)を用い、手づかみで食べます。

 「朱丹(しゅたん)」は、朱色と赤色。また、単に赤い色。

籩豆(へんとう)」は、祭祀のとき、食物を盛って供えた器。「」は果実類を盛る竹製の器、「」は肉類を盛る木製の器をいいます。

 「籩豆(へんとう)」は、祭祀のとき、食物を盛って供えた器。「」は果実類を盛る竹製の器、「」は肉類を盛る木製の器をいいます。

(3)倭人の葬儀・埋葬と「持衰」

其死有棺無槨、封土作冢、始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒、已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰、若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
 ①倭人の葬儀・埋葬

 その死には、棺は有るが、槨(かく)は無く、土を封じて冢を作ります。死してから喪に服すること十余日、その間は肉を食べません。喪主は、哭泣し、他の人々は歌舞し飲酒します。埋葬後、家をあげて水中に入って澡浴しますが、これは練沐のような感じです。

 「槨(かく)」は、古墳の埋葬施設で、墓室内部の「棺」を保護するもの。木槨、石槨、粘土槨、礫槨(れきかく)、木炭槨など。古代中国では「棺」と「槨」が共存したとされていますが、邪馬台国においては、「棺」のみで「槨」はなかったと書かれています。

 「澡浴」は、からだを洗い清めること。「練沐」も同様の意味。

 ➁「持衰(じさい)」

 倭の者が中國に詣でるために海を渡る時には、いつも一人が選ばれ、頭髪を梳かず、シラミを取らず、服は汚れたまま、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のごとく扱われます。名づけて持衰(じさい)と言います。もし、行く者たちに善いことがあれば、生口(せいこう)や財物が得られますが、もし、病気があったり暴害にあえば、その持衰が謹まなかったからだとして殺されます。

 「生口(せいこう)」は、古代において売買・献上・獲得の対象とされた生きている人間のこと。奴隷。

(4)倭国の産物と自然

出真珠青玉、其山有丹、其木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香、其竹篠簳桃支、有薑橘椒襄荷、不知以為滋味、有獮猴黒雉。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 真珠と青玉が産出します。山には丹があり、木には、柟(くす)、杼(とちのき)、櫲樟(くすのき)、楺(ぼけ)、櫪(くぬぎ)、投橿(かし)、烏号(くわ)、楓香(かえで)があります。竹には、篠(すず)、簳(やがら)、桃支(とうし)があります。薑(しょうが)、橘(たちばな)、椒(さんしょう)、蘘荷(みょうが)がありますが、彼らは美味しいことを知りません。また、猿、雉(きじ)もいます。

 さて、「邪馬台国の場所を探る❷」において、「南至投馬國水行二十日、「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月について説明しましたが、これらの表現を見て、「実際、使節団は邪馬台国にはいかなかった」「倭人から聞いた話をまとめた」と主張する意見がありますが、さすがにどうでしょうか。あちらこちらを見聞しなければ、こうした木や竹の種類を細かく記述したり、薑、橘、椒、蘘荷は美味しいのを知らないとは書けないと思いますので、無理のある解釈だと考えます。

(5)倭人の占い・作法・人間関係と倭国の租税・賦役

其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒、見大人所敬、但搏手以當跪拜、其人壽考、或百年、或八九十年。其俗國大人皆四五婦、下戸或二三婦、婦人不不妬忌、不盜竊、少諍訟、其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族、尊卑各有差序、足相臣服、收租賦、有邸閣、國國有市、交易有無、使大倭監之。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
 ①倭人の占い

 その風俗は、何か行動するときには、何かを語ります。骨を焼き、吉凶を占い、占いで予言します。その言葉は、令亀法(れいきほう)のように、火で焼けて出来る割れ目を見て、兆しを占います。

 「令亀法(れいきほう)」は、起源は古代中国大陸で、殷の時代に盛んに行われていた「亀卜(きぼく)」のこと。カメの甲羅を使う卜占(占い)の一種。カメの甲羅に熱を加えて、生じたヒビの形状を見て占う。

 ➁倭人の作法と人間関係

 集会での振る舞いには、父子・男女の区別がありません。人々は酒が好きです。敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝みます。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいます。

 身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいます。女は慎み深く嫉妬しません。盗みはなく、争論も少ないです。法を犯す者は、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにします。宗族には、尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られます。

 ③倭国の租税と賦役

 租税や賦役の徴収が行われており、それを収める倉庫があります。国々には市場が開かれており、それぞれの産物の交易が行われています。これには大倭(たいわ)が命ぜられていて、その監督の任に就いています。

 

9.諸国の監察

(1)伊都國による諸国の監察

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 女王国の北には、特別に一大率の官を置き諸国を監察させており、諸国はこれを畏れています。常に伊都国で治めています。あたかも中国でいうところの刺史(長官)のようです。倭王が魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したり、帯方郡の使者が倭国に遣わされた時には、いつも港に出向いて荷物の数目を調べ、送られる文書や賜り物が女王のもとに届いたときに、間違いがないように点検します。

 「刺史」は、中国の地方官。漢の武帝が全国を13州に分け刺史を置いたときは監察官であったが、しだいに州が細分され治所も定まり、魏・晋以後は、将軍職を兼ねて、郡県の上に勢力を持ちました。

(2)上下のしきたり

下戸與大人相逢道路、逡巡入草、傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬、對應聲曰噫、比如然諾。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 下級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして草の中に入ります。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、敬意を表現します。貴人への返答の声は「噫(アイ)」と言います。中国でいうところの「然諾(ぜんだく)」と同じ意味です。

 「然諾(ぜんだく)」は、引き受けること。うけがうこと。承知。承諾。

 

10.卑弥呼の登場

(1)卑弥呼について

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治國、自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飮食、傳辭出入居處。宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 その国は、元々は男子を王としていましたが、70〜80年ほど後、倭国は戦乱が起こって戦争が続きました。そこで、国々は共同して一人の女子を王にしました。その者は「卑弥呼」と呼ばれ、鬼道を使い、人々の心をつかみました。彼女は高齢で、夫はおらず、その弟が国の統治を補佐しています。王となってから、彼女に目通りした者はわずかしかいません。周囲には侍女を一千人仕えさせ、男子一人が、飲食物を運んだり、伝言を取り次いでいました。起居するのは宮殿や高楼の中で、まわりは城壁や柵が張り巡らされ、武器を持った者が常に警護にあたっています。

 戦乱で諸国が乱れていたところ、鬼道を用いる「卑弥呼」が女王として登場することで、人々の心をつかみ、戦乱が収まったことが書かれています。非常に特別な存在として扱われていたことや侍女が一千人もいたことなど、具体的に記述されているところが大変興味深く、「魏志倭人伝」の面白さを示すところだと思います。 

(2)女王国から見たその他の国々及び倭国の様子と大きさ

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國・黒齒國、復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 女王国から東へ海を渡って一千余里行くと、また別の国がありますが、皆、倭人と同じ人種です。さらにその南に侏儒國」があり、人の背丈は三、四尺で、女王国から四千余里のところです。そのさらに東南に「裸国」と「黒歯国」があり、船で1年航海すると着きます。

 倭の地について尋ねたところ、大海中の孤立した島嶼の上にあり、離れたり連なったりしながら分布し、周囲を巡れば五千余里ほどである。

 ここで、邪馬台国の位置を探る上での重要な情報がいくつか登場します。次回の最終回では、この連載の総活として、いよいよ邪馬台国の位置について一層具体的に検証いたします。この記述については、次回、独自に検討した結果をご説明いたしますので、お楽しみに!

(3)朝貢使節の派遣

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 景初2年(西暦238年)6月、倭の女王は大夫の難升米らを遣わし、帯方郡に詣でさせ、天子に朝貢を求めます。太守の劉夏は官吏を遣わし、魏の都に送りました。

 「景初(けいしょ)」は、三国時代、魏の明帝曹叡の治世に行われた3番目の元号。西暦237年から239年。景初二年は、西暦238年。3世紀の前半。

 この説明から、当時は、勝手に直接、都(洛陽)に出向くのではなく、まずは帯方郡の太守に対して皇帝への朝貢を申し出て、帯方郡の官吏がともに都に派遣されるという様子がわかります。

(4)親魏倭王「卑彌呼」

 ①親魏倭王「卑彌呼」への「みことのり」

其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、帶方太守劉夏、遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人・女生口六人・斑布二匹二丈以到、汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝、今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授、汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 その年の12月、倭の女王に詔書が出されました。曰く、

『親魏倭王の卑弥呼に「みことのり」を下す、帯方郡太守の劉夏が使者をつけて汝の大夫の難升米、副使の都市牛利を送り、汝がたてまつれる(献上する)、男の奴隷4人、女の奴隷6人、班布(はんぷ)二匹二丈を奉じてやってきた。汝の在所は遥か遠いが、使者を送り朝貢を行った。これは汝の忠孝であり、我は汝の衷情に心を動かされた。いま汝を親魏倭王となし、金印紫綬を仮授するが、その印綬は封印して帯方太守に託し、代わって汝に仮授させる。汝の種族のものたち鎮め安んじ、孝順に努めよ。汝が遣わした難升米と牛利は、遠く旅をし苦労を重ねた。今、難升米を卒善中郎将、牛利を卒善校尉となして、銀印青綬を仮授し、引見しねぎらい、下賜物を与え、帰途につかせる。』と。

 「制詔(せいしょう)」は、天子が命令をくだすこと。また、その命令。みことのり。

 「所獻」は「所献」。たてまつれる。

 「斑布(はんぷ)」は、人物や花鳥などの模様を種々の色で染めた綿布。

 「綏撫(すいぶ/ずいぶ)」は、 人々が安心するように鎮め治めること。人々を慰めいたわること。鎮撫。

 「引見(いんけん)」は、地位の高い人が人を呼び入れて対面すること。

 ➁下賜された品々とそれらの意義

今以絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・倩絳五十匹・紺青五十匹、荅汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鈆丹各五十斤、皆装封付難升米・牛利、還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 『今、絳地交龍錦5匹、絳地縐粟罽10張、蒨絳50匹、紺青50匹をもって汝の献上物への代償とする。加えて、とくに汝には紺地句文錦3匹、細班華罽5張、白絹50匹、金8両、5尺の刀2振、銅鏡100枚、真珠と鉛丹を各50斤ずつを下賜し、すべて封印して難升米と牛利に託し、持ち帰り目録とともに汝に授ける。これらのすべてを汝の国の者たちに示し、朝廷が汝らに深く心を注いでいることを知らしめんがためのもので、それゆえことさらに鄭重に汝に良き品々を下賜するものである。』と。

 絳地交龍錦、絳地縐粟罽、蒨絳、紺青、紺地句文錦、細班華罽及び白絹については、「魏志倭人伝に記された文様(石崎功(きもの研究家))」にて詳しく紹介されていますので、ご関心のある方はこちらをご覧になるのをお勧めします。

 ③正始元年(西暦240年)

正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拝暇倭王、并齎詔、賜金帛・錦罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表、荅謝詔恩。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 正始元年(西暦240年)、太守の弓遵が中校尉の梯儁らを遺わし、倭國に詣りて詔書・印綬を奉じ、倭王に拜暇しました。また、詔を携えて、金、絹、錦織物、刀、鏡、采物をもたらしました。倭王は謝恩の上表文を詔しました。

 「正始(せいし)」は、三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた最初の元号(西暦240年 - 249年)。

 「拜暇」は、中国語で「お辞儀をして休暇を願う」という意味。

 「(きんぱく)」は、「金(きん)」と「絹」。

 「(きんしゅう)」は、錦の織物という意味ですが、当時のものは、色糸で模様を表した簡単な縞織に類するものであったと思われます。

 ④正始4年(西暦243年)

其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆・掖邪拘等八人、上獻生口・倭錦・絳靑縑・緜衣・帛布・丹・木拊・短弓矢。掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 正始4年(西暦243年)、倭王は、また、大夫の伊聲耆、掖邪狗たち8人を遣わし、生口(せいこう)、倭錦(わきん)、絳青縑(こうせいけん)、緜衣(めんい)、帛布(はくふ)、丹(たん)、木拊(もくふ)、短弓矢(たんきゅうや)を獻(けん)じました。掖邪狗たちは、善中郎將の印綬をさずかりました。

 「倭錦(わきん)」は、日本製の錦(色糸で模様を表した簡単な縞織に類するもの)。赤、白、黄色の3色織であったと言われています。
 「絳青縑(こうせいけん)」は、赤色と青色をした薄手の絹織物。「絳」は赤色、「靑」は青色、「縑」は薄手の絹織物。
 「緜衣(めんい)」は、真綿を入れた衣服。「緜」は真綿、「衣」は衣服。

 「帛布(はくふ)」は、絹織物。「帛」は絹、「布」は織物。

 「丹(たん)」は、赤色の顔料。

 「木拊(もくふ)」は、木製の道具や器具。「拊」は、打つという意味。

 ⑤正始6年(西暦245年)

其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 正始年(西暦245年)、倭の難升米に黃幢(こうどう)を賜えと、郡に假授するよう詔が出されました。

 「黃幢(こうどう)」は、黄色の旗。「黃」は黄色、「幢」は旗を意味します。中国の皇帝から倭国への友好の証として贈られたものです。

 ⑥正始8年(西暦247年) 卑弥呼死亡

其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 正始8年、太守に王頎が到官しました。倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和で、倭は載斯・烏越たちを郡に遣わし、互いに攻擊している状態を説明しました。塞曹掾史の張政たちを遣わし、詔書と黃幢を難升米に拜假し、告喻しこれを檄した(木札に書いた)。卑彌呼が亡くなり、塚が大いに作られ、それは、径100歩ほど、狥葬者は奴碑100人ほどでした。

 「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和として、卑弥呼が倭の女王、そして、それに男王がいる狗奴國が不仲で対立していると書かれています。重要なことは、倭国というのは、日本全国ではなく、近隣に対立する国がいる日本の一部の国であるということです。「倭国=日本国」だと思い込んでおられる方々は、ぜひ認識を改めていただきたいと思います。

 正始8年(西暦247年)に卑弥呼が没したと書かれています。

(5)卑彌呼の死後

更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雜錦二十匹。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 次に男王が立ちますが、國中が従わず、互いに殺し合い、当時千人以上が殺されました。その後、卑彌呼の宗女の壹與という13歳の者が王になり、國中がついに定まりました。張政らが檄文をもって壹與を諭しました。壹與は、倭の大夫の率善中郎將の掖邪狗たち20人を遣わし、張政らが還るのを送るとともに、臺(魏の都)に詣り、男女生口30人、貢白珠5000孔、青大句珠2枚、異文雜錦(いもんざつきん)20匹を獻上しました。

 「檄文(げきぶん)」は、古代において命令や通告を伝える公文書の一種で、特に軍事的な命令や宣戦布告などを伝えるときに用いられました。また、人々に立ち上がって戦うよう呼びかける文書のことも指します。ここでは、魏の皇帝から派遣された張政らが「檄文をもって壹與を諭した」ということなので、皇帝からの指示・命令を壹與に伝えたということを表しています。

 「」は、朝廷(皇帝のいるところ)を指します。
 「白珠」は、真珠で、「青大勾珠」は、大きな翡翠の勾玉。
 「異文雜錦(いもんざつきん)」は、異なる色々な模様が混じった錦(色糸で模様を表した簡単な縞織に類するもの)。「異文」は異なった模様や文様を、「雜錦」は色々な模様が混ざった錦を意味します。

ゴーヤン
ゴーヤン

皆さま、「邪馬台国の場所を探る❹」はいかがでしたか。倭国の様子が詳細に説明されるとともに、ついに、邪馬台国の「卑弥呼」が登場しましたね。次回は、いよいよ、この連載の最終回です。「邪馬台国の場所」について、総括してお話いたします。お楽しみに!

 

【参考文献】

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