短編歴史物エッセイ

邪馬台国の場所を探る❸

2024年4月21日

【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
【論文】『邪馬壹國の場所を探る』

令和6年12月4日、神部龍章は学術論文『邪馬台国の場所を探る』を発表。邪馬壹國は、鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけて存在したと結論。最も有力な候補地は、宮崎県の西都原古墳群あたりと推定。「科学的根拠」から迫るアプローチと「文献解読」から迫るアプローチを重ね合わせることで邪馬壹國の場所の特定が完成。

倭の五王❸『古事記』の解読による検証
倭の五王❸『古事記』の解読による検証

『古事記』の解読による検証。宮内庁ホームページ「天皇系図」の古代歴代天皇の在位期間は、基本的に日本書紀の記述に基づいていますが、『宋書』倭国伝の解読による検証でご説明したとおり、これらは倭の五王に関する記録と全く一致しません。そこで、『古事記』に着目し、詳しく記述内容を紹介しつつ、『宋書』との対査を試みます。

倭の五王❷『宋書』の解読による検証!
倭の五王❷『宋書』の解読による検証!

倭の五王のうち、第19代允恭天皇が「済」、第20代安康天皇が「興」、第21代雄略天皇が「武」である。中国古代史書『宋書』の中に「夷蛮伝」があり「倭国伝」はその一部。主な内容は宋朝に対する倭国王の朝貢と任官。倭の五王が朝鮮半島の覇権を視野に入れ、頻繁に宋朝に朝貢し、皇帝から任官されている様子が記載されている。

倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!
倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!

『宋書』に登場する倭国の5代の王は、「讃」「珍」「済」「興」「武」という名前で登場。日本古代の歴代天皇を指しますが、具体的に「どなたか?」は所説あります。本連載では、「宋書」の原文を忠実に読み、歴史的背景を整理しながら、倭の五王の謎に迫り、様々な観点から古代日本の年号が西暦何年なのかを解明して参ります。

邪馬台国の場所を探る❺(最終回)
邪馬台国の場所を探る❺(最終回)

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、大変お待たせしました。女王卑弥呼がいた邪馬台国、その女王国に従う国々を監察する伊都國、そして倭国の規模、さらに、女王国の南方に位置し、敵対する狗奴國の位置関係を作図することで明らかにいたします。

邪馬台国の場所を探る❹
邪馬台国の場所を探る❹

『魏志倭人伝』に詳細に記載されている倭人の生活習慣や倭国の自然、そして諸国を観察する様子に触れた後、いよいよ卑弥呼が登場。親魏倭王・卑彌呼への「みことのり」、下賜された品々とそれらの意義、正始元年以降の出来事を経て、正始8年(西暦247年)卑弥呼が死亡します。そして、最後は彼女の死後の様子が描かれています。

邪馬台国の場所を探る❸
邪馬台国の場所を探る❸

『魏志倭人伝』の内容を吟味するには、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえる必要があります。ある一節の中で「邪馬台国」の場所を書き表していたのです。これを読み解くには、きちんと中国古代の歴史故事を踏まえつつ、後漢の時代には確立していた「周碑算経」の中に登場する「一寸千里法」を使えば解決できるものだったのです。

邪馬台国の場所を探る❷
邪馬台国の場所を探る❷

「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。」女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。原文から謎を解く。作者の意図を読むことが肝要。すぐには行くことができない遠く離れたところにある国々というのは女王国に属する国々ではない。

邪馬台国の場所を探る❶
邪馬台国の場所を探る❶

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が伝えたかった事実を解明し、邪馬台国の場所の謎に迫ります。後漢の時代にすでに完成していた「周碑算経」という朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書の原文が示す方法「1寸千里法」等を用い、魏志倭人伝の距離・方位を正確に検証し、邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチ!

女性天皇と女系天皇【後編】
女性天皇と女系天皇【後編】

「女系天皇」とは、母親が天皇家の血筋で父親が他家の血筋の方が天皇に即位した場合を意味します。初代の神武天皇から現在の今上天皇まで126代の天皇が即位され、全員「男系天皇」ですが、第29代欽明天皇は、母親から仁徳天皇以降のお血筋を受け継ぐことで、当時の社会においてもその正当性が受け入れられたという歴史的事実等を解説!

女性天皇と女系天皇【前編】
女性天皇と女系天皇【前編】

女性天皇と女系天皇、一字違うだけであるが意味は全く違う。歴史上、女性天皇は8名の方がいらっしゃった。現在の皇室典範では男系の男子が皇位を継承することが定められているが、これは歴史上の事実が軽視されている。過去の女性天皇がどのような経緯で即位されたのか、果たされたお役目は何かなどについて詳しく解説。

足利義満と勘合貿易
足利義満と勘合貿易

~明国皇帝に冊封を申し出た偉人~
1401年、義満は「日本国准三后源道義」と名乗り、明国に使節を派遣する。明国の第二代皇帝・建文帝から日本国君主として認められる。翌年1402年、明国から詔書には「日本国王源道義」と記され、また、義満自身も「日本国王臣源」として返書を送り明の冊封を受けた。冊封体制の成立である。日本と明国との間で勘合貿易が始まる。

阿部正弘と井伊直弼
阿部正弘と井伊直弼

~二人の米国人に対抗した日本の偉人たち~
老中阿部正弘は、ペリー来航から日米和親条約締結に至る歴史的難局を乗り切った。若くして難局を乗り切った歴史上の偉人だ。ペリーは浦賀の前に琉球王国を訪問していた。大老井伊直弼は、安政の大獄の印象が強い人物であるが、「横浜開港」に貢献した偉人だ。ハリス総領事の強力な主張に対し、既成事実を積み上げて押し切った 。

琉球王朝の歴史
琉球王朝の歴史

~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~
沖縄では「万国津梁の精神」という言葉がある。万国津梁之鐘にその記録が残ることに由来する。万国津梁とは「世界の架け橋」という意味だ。沖縄の発展や未来展望を語る際には欠かせない。琉球王朝は、国際貿易で大繁栄を極めた。その鍵は明国の朝貢貿易と冊封体制にある。なぜ小さな島の王朝が大繁栄したのか、その謎に迫る 。

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【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
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論文『邪馬壹國の場所を探る』

古代歴史故事から邪馬台国の謎を解明

 皆さま、こんにちは。神部龍章です。「邪馬台国の場所を探る」の第3回目です。本シリーズにおいては、短編歴史物エッセイ作家と教育コンサルタントの観点から、「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参ります。

 前回の第2回では、「魏志倭人伝」の原文に沿って「一大國」から「邪馬壹國」までの旅程について解説しながら、旅を進め、作者が意図することを探って参りましたが、今回は、その続きです。「魏志倭人伝」に書かれた内容を吟味するには、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえる必要があることなどを中心にお話を進めます。邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチを存分にお楽しみください!

6.邪馬壹國の位置に関する古代歴史故事

自郡至女王國萬二千餘里、男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東冶之東。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(陳壽)底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店(1951(昭和26)年11月5日第1刷発行、1983(昭和58)年9月10日第42刷発行)、底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本

 帯方郡から女王国は一万二千里余りです。男子は大小かかわらず、皆、顔に入れ墨、体に入れ墨をしています。古くから中国に詣でた倭の使者は、皆、自らを「大夫」と称しています。夏王朝少康皇帝の子が会稽に封ぜられたとき、断髪して体に入れ墨をし、蛟龍の害を避けたと伝わりますが、今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕っています。身体に入れ墨をして大魚や水禽を避けていましたが、後には飾りとなりました。入れ墨は、国ごとに異なり、左に右に、あるいは、大に小に、階級によって差が有ります。その位置を計ってみると、ちょうど會稽東冶の東にあります。

 さて、多くの方々は、「自郡至女王國萬二千餘里」と「當在會稽東冶之東」のところだけをご覧になり、あれこれ仮説を立てて、いろいろな主張を展開されているわけですが、この「自郡至女王國萬二千餘里、・・・當在會稽東冶之東。」のフレーズにおいては、当時の知識人としての作者の非常に奥深い見識の高さや文章表現のうまさが感じられますので、じっくり説明させていただきます。

(1)自郡至女王國萬二千餘里

 「自郡至女王國萬二千餘里」は、帯方郡から女王国は一万二千里余りですと言っています。

 さて、諸説ある中、この距離については、帯方郡から女王国までに至るまでに実際に移動した距離であるとして、

 帯方郡➡(七千餘里)➡狗邪韓國➡(一海千餘里)➡對馬國➡(一海千餘里)➡一大國➡(一海千餘里)➡末盧國➡(陸行五百里)➡伊都國➡(百里)➡奴國➡(百里)➡不彌國と移動したので、これらをすべて足し合わせると一万七百里餘里。これを一万二千餘里から引くと残りが一千三百里となるので、不彌國から邪馬台国までの距離が一千三百里だと出張している方がいらっしゃいますが、本当にそうでしょうか?

 「邪馬台国の場所を場所を探る❶」において、

方郡から倭国に至るには、沿岸に沿って海路を行き、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、倭国の北岸にある『狗邪韓国』(くやかんこく、朝鮮半島南岸)に到着します。七千余里あります。と言っていますので、現在の地図を見ても明らかなとおり、複雑な海岸線に沿って、沿岸部を進んでいったと思います。すなわち、その行程の中で、詳細に複雑な海岸線での距離を測定しながら進んでいたとは考えにくいことから、こうした観点からみても、直線距離を示していると結論付けても問題ないと考えます。

と申し上げましたが、倭国への旅程を進めながら全行程の距離を測定しながら進んだとするのは極めて無理があると考えます。

 さらに、もしそうであるならば、不彌國から邪馬台国までの行程などについても記述を省略する理由は特にないので、何らかの形で記載されていると思いますが、そうした記述はございません。

 やはり「直線距離である」と考えるべきだと思います。「邪馬台国の場所を探る❶」で説明したとおり、「1寸千里法」を用いて直線距離を推計していると考えます。その根拠は、このフレーズ全体をしっかりと読むとわかりますので、先に進みましょう。

 

(2)倭人の観察

 「男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、」として、男子は大小かかわらず、皆、顔に入れ墨、体に入れ墨をしています、そして、古くから中国に詣でた倭の使者は、皆、自らを「大夫」と称していますと説明しています。

 「黥面」は、顔に入れ墨をするという意味で、「文身」は、体に入れ墨をするという意味になります。ここでは特に、倭人たちが体に入れ墨をしていた表現の「文身」が大きなキーワードになっています。

 次に「夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、」の一節が出てきますが、これが古代歴史故事から邪馬台国の謎を解明する上で、極めて重要なところなので、こちらはあとでじっくりお話させていただきます。先に、倭人の説明のところを見てみましょう。

 「今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」として、今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕っています。身体に入れ墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りとなりました。入れ墨は、国ごとに異なり、左に右に、あるいは、大に小に、階級によって差が有りますと説明しています。

 特に重要なところが「文身亦以厭大魚水禽」です。「文身」がまた登場しました。そして、身体に入れ墨をして大魚や水禽を避けていたというところが重要なのです。ちなみに、「水禽(すいきん)」とは、主として水上または水辺で生活する鳥類の総称のことです。簡単に言えば「水鳥」です。

(3)夏后少康之子

 「夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、」ところを詳しくお話させていただきます。邪馬台国の諸説を拝見していると、ここの一節をスーッと読み飛ばしている方も多いのですが、ここが重要なのです。読み飛ばしてはいけません。

 「夏后」というのは、中国最古の王朝である「夏王朝」のことです。初代の君主は「」という方で、紀元前2070年頃から紀元前1600年頃にあったとされます。中国の古代歴史書の「史書」に記された中国最古の王朝です。「夏后氏」とも言います。これでの研究により実在したということで、当時の調査が一層進んでいるところです。

 「少康」とは、夏王朝第6代皇帝で、王朝の最盛期にあった方だと言われています。

 「夏后少康之子」は、少康皇帝の息子さんのことですが、「無余」という方で、春秋時代の「越国」の祖として知られています。これは、「呉越同舟」の故事で登場する「越国」です。

 「蛟龍」とは、「蛟竜」という中国古代の想像上の動物のことです。つまり、いわゆる水難事故というものは、「蛟竜」という一種の妖怪のようなものによる仕業で起こるといったようなことが想定されています。日本の故事で言えば、河童に襲われるというような感じでしょうか。

 「斷髮文身、以避蛟龍之害」は、何を言っているのかというと、その当時、長江流域に住む人々の間では、髪を短く切り、体に入れ墨を入れる風習があったわけですが、その理由として、「蛟竜」の害を防ぐ、つまり、水難を防ぐということを表しています。

 

🍵ティーブレイク「呉越同舟」
time lapse photography of flowing waterfall

 
 
 

 

「呉越同舟(Wú Yuè Tóng Zhōu)」は、春秋時代(紀元前770年から紀元前476年)に中国の長江流域で起こった故事に基づきます。これは、「呉」と「越」という対立する二つの国家の人々が同じ船に乗っているという状況から生まれました。

現在、「呉越同舟」というと、仲の悪いもの同士が居合わせるという意味でとらえることが多いかもしれませんが、本来は、仲の悪いもの同士でも同じ目的のためならば助けあえるという意味です。

 

 

 
 
 

 

Domani(「呉越同舟」ってどういう意味?)において次のようにわかりやすく紹介されています。

『呉越同舟は、軍事理論書として有名な、「孫子(そんし)」という兵法書の中に見られる話です。その内容は、「敵同士であっても、乗り合わせた舟が嵐に合い、同じ危機に直面すれば、協力することになる」というものです。このことから、「敵対する者同士でも、利害や乗り越えないといけない危機が一致すれば、互いに協力しあうものだ」という意味で使われるようになりました。』

 

 

 

brown concrete bridge between trees

 

 さて、この「無余」という方は、中国の古代歴史書「史記」の中で次のように紹介されています。

越王勾践,其先禹之苗裔,而夏后帝少康之庶子也。封於会稽,以奉守禹之祀。文身断发,披草莱而邑焉。

(出典)「史记」越王勾践世家

 越王勾践は、その先祖・(夏王朝の始祖)禹の子孫であり、かつ夏王朝少康皇帝の庶子(無余)の子孫です。(無余)は、会稽に封じられ、禹を崇拝していました。彼は身体に入れ墨をし、髪を切り、草の衣を身にまとい、そこで生活していました。

 「勾践」という方は、越王の中でも有名な方で、歴史書の中でもよく登場します。

 ここで、注目してほしいのが「而夏后帝少康之庶子也。封於会稽,以奉守禹之祀。文身断发,披草莱而邑焉。」というところです。魏志倭人伝における「夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身」という表現は、史記を引用しています。魏志倭人伝の作者は、教養の高い文化人でしたので、当然と言えば、当然の文章表現技量ですね。

 「今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽」のフレーズを思い出してください。今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕っています。身体に入れ墨をして大魚や水禽を避けていましたと言っていましたよね。つまり、倭人の様子を見て、倭人たちも「夏后少康之子」(無余)と同じことをしている!と感嘆し、「遠く異国の倭国の地においても、夏后の時代の故事が伝わっているのだろうか~」と思いを巡らす様子が表現されています。実に奥深い記述です。

(4)「東冶」と「東治」

 ①会稽郡の変遷

 「夏后少康之子、封於會稽」より、「夏后少康之子」(無余)は、「會稽」の土地を領地として与えられ、そこを統治したわけですが、その当時は、長江下流の流域から現在の蘇州市あたりです。特に、長江下流の流域に住んでいたことについては、上述の「斷髮文身、以避蛟龍之害」という表現からも明らかです。

 「計其道里、當在會稽東冶之東。」は、その位置を計ってみると、ちょうど會稽東冶の東にありますと言っています。倭人たちの入れ墨の話など、倭国の様子について書いていますので、当然、その位置というのは、「倭国の位置」ということで疑う余地はありません。

 問題は、「ちょうど會稽東冶の東にあります」と言っている点です。今回の連載で、原文として用いているのは、青空文庫「魏志倭人伝」ですが、その中では「會稽東冶」と書かれています。「東冶」の「」は、金属を精錬するという意味で、日本では「冶金」などの言葉で知られています。統治するの「」と字が似ていますが、意味は全然違います。

 「邪馬台国の場所を探る❶」において、この「魏志倭人伝」という書物は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻に含まれる一節で、作者は「陳寿(ちん じゅ)」という方ですと紹介しましたが、この『三国志』においては「東治」と書かれていました。

 原文は、宮内庁の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」において、『三国志』の画像資料を閲覧することができます。(※「出版物及び映像への利用(写真掲載・翻刻など)については、図書寮文庫出納係への申請が必要」とのことなので、リンク先より直接サイトをご覧ください。)

 魏志倭人伝の記述は、画像資料のp56/67から始まりますが、p58/67をご覧ください。書籍画像の右端に確かに「東治」と書かれています。

 また、「邪馬台国史料比較サイト・邪馬台国を探せ『後漢書』」において、「原文を見る」というリンクから「国立国会図書館デジタルコレクション」より「後漢書」の関連個所へのジャンプ設定がされており、その原文も見ることができますので、併せてぜひご覧になるのをお勧めします。確かに「東冶」と書かれています。

 書かれた順番は、「三国志」が先で、「後漢書」が後です。(注:時代の流れは、後漢➡三国時代の順なので、誤解しやすいのですが、重要なことは、歴史書自体が執筆された時期です。)

 なお、「邪馬台国史料比較サイト」は、中国古代歴史書の原文を手軽に見ることができる素晴らしいサイトです。この場をお借りして御礼申し上げます。

 さて、「後漢書」にて「東治」を「東冶」に書き直した理由は、「會稽」という名称のエリアが時代とともに変化したことが関係しています。上述のとおり、「夏后少康之子」(無余)が統治していた時代では、長江下流の流域から現在の蘇州市あたりだったのですが、その後、時代が進むと、エリアが拡大し、福建省を含む広大なエリアが「会稽郡」と呼ばれるようになります。

 フリー百科事典ウィキペディア「会稽郡」の記述によれば、前漢に入り、エリアが拡大した「会稽郡」は、「呉郡」と称されますが、その後、後漢の時代になり、次のように、郡の管轄や郡内部の設置県が改められます。

永建年間、陽羡県令であった周嘉等により会稽郡が広大であり地方行政に不便を来たしていると郡の分割が請求された。129年(永建4年)、会稽郡北部の13県に呉郡を設置、それまで郡治が設置されていた呉県が呉郡の管轄となったため郡治は山陰県に移されている。また138年(永和3年)には章安県東甌に永寧県を設置、山陰・鄮・烏傷・諸曁・余曁・太末・上虞・剡・余姚・句章・鄞・章安・東冶・永寧・侯官の15県を管轄するようになった。

(出典)フリー百科事典ウィキペディア「会稽郡」

 ここで登場する「東冶県」は、前漢の時代には「冶県」という名称でしたが、後漢になり「東冶県」に改められたもので、現在の福建省福州市あたりです。つまり、後漢の時代には「会稽郡東冶県」という場所があった訳です。これが「字」を間違えた第一の理由です。

 ②会稽東治

 正しくは「会稽東治」であることはわかりましたが、そもそも、この「会稽東治」とは何を言っているのでしょうか?

 ここで、もう一度、「夏后」の初代皇帝の「」についてお話させていただきます。この「」という方は、庶民を苦しめる洪水を防ぐため、治水事業に力を入れ、その分野では卓越した取組みを進めたと伝わります。当時「夏后」の都については、諸説ありますが、「二里頭村(現在の洛陽市)」にあったと言われており、「」は、治水事業を行うために都から出かけて東方を巡る、いわゆる「東巡」を行いました。この「東巡」の過程で、「」は各地の地形や水系を観察し、治水のための重要な情報を得たと言われます。

 また、「」は治水事業に優れていただけではなく、孝徳を身に着けた聖人であったと言われます。

禹は治水事業を成功させた点が評価されたばかりでなく、孝の徳目を身につけていた点でも評価されました。『論語』「泰伯」には、孔子の言葉として「禹は吾れ間然することなし。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神に致し…」という発言が見えます。「禹は、文句の付けようがない。自分の飲食物を粗末なものにして、先祖の御霊に孝行した」という意味です。先祖に孝行するというのは、先祖の神霊に飲食物を捧げて、立派にお祀りをした、ということです。存命中の親に対しても、亡くなった先祖に対しても、飲食物を捧げるというのが孝だったのですね。禹は儒教の聖人としても尊敬されたわけです。

(出典)ミツカン水の文化センター「禹の治水と中国史の流れ」東京大学名誉教授文学博士・蜂屋邦夫

 「」は「東巡」の行程中に会稽の地で亡くなってしまいます。「会稽山(現在の紹興市付近)」に奉られています。具体的にどこでお亡くなりになったのかについては諸説あります。まさに奉られている「会稽山」とする意見が多いのですが、長江にて船で巡行中になくなったとする説もあります。これは単なる筆者の感想ですが、お祀りされている「会稽山」はお亡くなりになった場所ではなく、見晴らしのよい場所にお祀りしており、お亡くなりになったのは、船上など別の場所ではないかと思います。

 上述の「史記」の紹介にて、「夏后少康之子」(無余)が「封於会稽,以奉守禹之祀。会稽に封じられ、禹を崇拝していました。)と説明しましたが、自分の先祖であり、自分が封じられた会稽という所縁の地で、孝徳を身に着けた聖人と言われる方だったので、崇拝していたのだろうと思料します。

 以上のことから、「会稽東治」というのは、『会稽という、夏后時代に「禹」が「東巡」して治めていたところ』という意味だと解釈しますが、いずれにせよ、わかりにくい表現であるという観点では誰もがそのように思う書き方となっています。特に「東治」という表現は、深い意味を持たせすぎてわかりにくかったため、後漢の時代に、「単に字が間違っている」と誤認識されたことが「字」を間違えた第二の理由です。

 ③華夷思想

 中国では、儒教の教えに基づき、伝統的に「華夷思想」という考え方があります。「」とは、 『文明圏』を意味する儒教的価値観を指します。「中華」という言葉は、「華(文明)の中」を意味します。一方で、この対比となる「」とは 『非文明』を意味し、「華の外は夷(蛮)」、つまり『野蛮国』に位置付けています。

 そして、「四夷」という言葉があり、次の4つを表します。

  • 東夷(とうい)古代は中国大陸沿岸部、後に日本・朝鮮などの東方諸国
  • 西戎(せいじゅう)所謂西域と呼ばれた諸国など
  • 北狄(ほくてき)匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古など北方諸国
  • 南蛮(なんばん)ベトナム・カンボジア等東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人など。 

 日本では「中華思想」という言葉が有名ですが、このまま、中国人に言っても伝わりません。日本だけの表現であり、日本のとらえ方だからです。中国人には「華夷思想」と言わなければ伝わりません。そもそも、「華夷思想」は儒教の教えなので、四夷」は中華文明の影響と恩恵を受けていない「化外の民」であり、これらの民を教化して中華文明の世界へ導くことが中華世界の責務であると考えられていました。つまり、教え導く必要があると考えていたということです。

 ここで、なぜ「中華思想」の話を始めたのかというと、古代中国における周辺諸国に対する関心度について少しお話したかったからです。上述の「四夷」のうち、「北狄」、「西戎」が最も脅威であると感じていました。その証拠に、秦の始皇帝が万里の長城を作ったという話は有名です。一方で、最もリスクが低いのが「東夷」であり、特に、朝鮮の向こうで、海を隔てた国ということで、倭国(日本)は、漢の時代などにおいては、関心も低かったと考えられます。

 さて、後漢の時代に「会稽郡東冶県」が存在したのは確実ですが、その東は、沖縄県那覇市あたりです。さすがに倭国が沖縄あたりに存在したと考えるのはおかしいわけですが、上述のとおり、関心が低かったこと、そして、倭国は、中国の東方、朝鮮の南方に、海の向こうにある島々にあるといった程度の認識だったと考えられることが「字」を間違えた第三の理由です。

 以上の理由により、「字」を間違えたまま、伝えられていると考えられます。したがって、計其道里、當在會稽東冶之東。」が示す場所は、夏后少康之子」(無余)が封じられた当時の会稽の場所、長江下流の流域からその南(現在の蘇州市)あたりということになります。そもそも、斷髮文身、以避蛟龍之害」ということで、水辺がないと話になりませんから、しっかりと原文を味わってほしいものです。

 

7.邪馬壹國の位置

 計其道里、當在會稽東冶之東。」が示す、「長江下流の流域からその南(現在の蘇州市)あたりの東」に基づき、どのあたりが該当するのかを作図して調べてみましょう。

 (図8)當在會稽東冶之東より、九州の鹿児島県や宮崎県南部あたりが該当します。

 「邪馬台国の場所を探る❶」において、「一寸千里法」について説明しました。覚えておられるでしょうか。

『漢王朝の時代には、すでに太陽の南中高度の違いを利用した距離測定方法が確立していました。太陽が真南に来たときに「南中」したといいますが、そのときの太陽の高度が「南中高度」です。ここで、地面に棒を垂直に立ててその陰の長さを図ると、緯度によって棒の長さが違うことから、その角度の違いと南北の距離との関係を使って、距離を測定していました。』

 「3世紀の時代に緯度の測定などができるはずない!」と考えている読者の皆さま、落ち着いてください~、太陽が南中したときに、棒を立てて影の長さを図るだけなんです。今どきの小学生ならば、笑いながらやってくださいますよ。

(図8)當在會稽東冶之東

 「自郡至女王國萬二千餘里」は、帯方郡から女王国は一万二千里余りですと言っていますので、この要素も入れて作図してみましょう。

(図9)邪馬台国の位置

 (図9)邪馬台国の位置を見てください。帯方郡から一万二千里の距離にある場所と会稽東冶之東(正しくは「東治」ですが、青空文庫「魏志倭人伝」の表記に合わせています。)に当たる箇所が九州の鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけての箇所で見事に交わっています((図9)の赤丸が示す場所)。

 以上のことから、魏志倭人伝においては、

「自郡至女王國萬二千餘里、男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東冶之東。

というフレーズの中できちんと「邪馬台国」の場所を書き表していたのです。これを読み解くには、きちんと中国古代の歴史故事を踏まえつつ、後漢の時代には確立していた「周碑算経」の中に登場する「一寸千里法」を使えば読み解けるものだったのです。

 「邪馬台国は、九州の鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけての箇所に存在した」と結論付けることができます。

ゴーヤン
ゴーヤン

皆さま、「邪馬台国の場所を探る❸」はいかがでしたか。ついに、邪馬台国の位置が浮き彫りになりましたね。次回は、倭国はどのような国であったのかなどについてお話いたします。お楽しみに!

 

【参考文献】

↓ ↓ ↓ 神部龍章の学術論文はこちら ↓ ↓ ↓

論文『邪馬壹國の場所を探る』

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