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「魏志倭人伝」の原文から謎を解明
「皆さま、こんにちは。神部龍章です。「邪馬台国の場所を探る」の第2回目です。本シリーズにおいては、短編歴史物エッセイ作家と教育コンサルタントの観点から、「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参ります。
前回の第1回目では、後漢の時代にすでに完成していた「周碑算経」という朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書の原文が示す方法「1寸千里法」等についてご紹介した上で、朝鮮半島の「帯方郡」から「對馬國」までの旅程をご紹介しながら、旅を始めたところですが、今回は、その続きです。邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチを存分にお楽しみください!
4.壱岐を経て九州北部に上陸
(1)瀚海(一大國)
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(陳壽)底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店(1951(昭和26)年11月5日第1刷発行、1983(昭和58)年9月10日第42刷発行)、底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本
「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、」
さらに南へ一千里を超えて渡ると、「瀚海(かんかい)」という名前の国(一大國)に至ります。その長官は(對馬國と)同じく卑狗と言い、副官は卑奴母離と言います。
「図5 対馬と壱岐」が示すように、対馬から南に一千里の場所にあるのは「壱岐」です。正確には「壱岐は対馬から見ると東南の方角ではないか」と言っている方がいらっしゃいますが、対馬海流の影響を受けるので、船は常に南の方角に進める必要がありますから記述としては何の問題もないと考えます。
多くの資料では「名曰瀚海」は、単に「瀚海」という名前だと称して読み飛ばしていますが、「瀚海」は中国語で砂漠という意味です。つまり、山深い対馬や平戸島などと異なり、比較的平坦な壱岐は、砂浜も多く、おそらく砂丘のように見える場所があったのだろうと思います。この表現からも「一大國」は、壱岐を指すと考えて間違いありません。
「方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。」
面積300平方里、竹や木がたくさんあり、三千世帯が住んでいます。耕作できる土地はありますが、食べるものはまだ足りず、(對馬國と)同様に南へ北へと交易を行っています。
「方可三百里」と言っていますが、壱岐は、「図6 壱岐の大きさ」のとおり、南北約17km、東西約15kmのやや南北に長い亀状の島で、総面積は139.42平方kmです。面積300平方里(一辺23km)と言っていますので、少し大きめに表現されています。
「亦南北市糴」については、北は狗邪韓国や對馬國、南は九州北岸を示すものと考えられます。
(2)末盧國
又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
「又渡一海千餘里、至末盧國、」
また海を一千里渡ると、末盧國に至ります。
「末盧國」については、また海を一千里渡ると至ると言っているだけなので、その方角などもよくわかりません。そこで、「図7 壱岐から一千里の場所」により、九州北岸各地の候補地を確認いたしましょう。緑色の半円が壱岐を中心とする一千里の円を示します。
まず円周に近い場所は、西から佐世保、福岡、古賀、宗像ですね。そしてやや内側では伊万里、さらに内側では西から平戸、松浦、唐津、糸島が同程度の距離上にあることがわかります。
「有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。」
四千世帯以上あり、山と海に臨むところに住んでおり、草木が茂り、歩いて進むときに前の人が見えません。魚や河豚を好んで取り、水の深い浅いにかかわらず、みんな潜ってこれを取っています。
「濱」は、水辺、水際や近くに迫っている様子を意味していますので、「濱山海居」は山と海に挟まれた地形のところに住んでいることを表しています。その様子は、草木が茂り、歩いて進むときに前の人が見えないと言っています。上述の候補地のうち、平坦な海岸線が広がっている福岡ではなさそうです。ただし、これ以上のことは、地形のイメージだけでは、判別するのは難しいですね。
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(3)伊都國
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
東南に陸地を進むと五百里で伊都國に至ります。長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚です。一千世帯以上あり、倭国の世には王がおり、皆、女王国に属しています。郡使の往来では常にここに駐在します。
「伊都國」においては、世帯数は一千世帯以上なので、それほど多くはありませんが、長官のほか、副官が2名おり、皆、女王国に属しているという話が出て来るほか、帯方郡などの「郡使」が往来する際に必ず駐留すると言っています。すなわち、この伊都國は、女王国に属していて組織が整えられている上に、郡使をもてなす施設があることを示しています。
(4)奴國
東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
東南に百里で奴國に至ります。長官は兕馬觚、副官は卑奴母離と言います。二万世帯以上あります。
陸路か水路かわかりませんが、東南に百里行くと「奴國」があり、二万世帯以上あると言ってますので、結構規模が大きいです。
(5)不彌國
東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
東に百里歩くと不彌國に至ります。長官は多模、副官は卑奴母離と言います。一千世帯以上あります。
「行」は歩くという意味です。東に百里歩くと「不彌國」に至り、こちらは一千世帯以上だと言っています。
ところで、どこから東に向かって歩いたのでしょうか?ここで、ちょっと気になるのが「郡使往來常所駐。」という記述です。帯方郡からの使節はみんなここに泊まると言っています。伊都国から東南百里(7.7km)で「奴國」に至ると言っていますので、百里程度の距離であれば、日帰りでも行って帰ってくることもできます。
そして、「不彌國」については、「東へ百里行くと不彌國に至ります」と言っているだけなので、今までの旅程記述の習慣で、現在いる場所から次の拠点へと異動していると思いがちですが、そうとは限りません。「(伊都國から)東百里で不彌國に至ります」と言っているとも考えられます。この場合も、同様に百里程度の距離であれば、日帰りでも行って帰ってくることもできます。
5.邪馬台国へ
(1)投馬國
南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
南へ船で二十日にて「投馬國」に至ります。長官は「彌彌」、副官は「彌彌那利」と言います。五万世帯以上あります。
「南に船で20日にて投馬國に至る」と書かれています。どこから、船で出発したのでしょうか?話の順番で考えると、先ほどの「不彌國」から出発したとなりますが、上述のように、伊都國から不彌國までの距離が百里と極めて近いので、日帰りでも行って帰ってくることもできると考えると、「伊都國」から出発したことになります。
いずれにせよ、「南至投馬國水行二十日」と言ってますので、南に向けて船が出る場所でなければなりません。
さて、邪馬壹國はこの投馬國の次に出てきますが、ここで、「水行二十日」とは何を意味しているのかがわからないため、投馬國がどこにあるのかがまったくわかりません。ちなみに、この後で説明しますが、次の邪馬壹國は、『南へ「水行十日・陸行一月」(船で10日・歩いて1か月)で至る』とされています。これこそが、邪馬台国がどこにあるのかわからない最大の要因です。この日数による旅程表現により、具体的な場所が全くわからなくなっています。
ところで、帯方郡を出発して不彌國までの旅程はすべて方角と距離で書かれていましたが、投馬國と邪馬壹國までの旅程は日数表現に代わっています。いったい、なぜでしょうか?
まず思いつくことは、「何日も日数を要してどんどん進まなければ到着できないほど、遠い距離だったのではないか?」ということだと思いますが、それはいったいどこなのでしょうか?九州北部から南へ20日もかけて船でいくと「琉球あたりでしょうか?」となりますが、琉球の古代歴史では、3世紀ごろには邪馬台国のような国(集落)があったことは全く確認されていません。諸説ありますが、12世紀頃に沖縄本島内の集落間の争いで統率する者が現れ、各地域を治める政治的な支配者となったものが 「按司(あじ)」の始まりだと言われています。
では、「いったい20日間もかけてどこまで行ったのでしょうか?」となりますが、まあ、ここは、柔軟な頭で、発想も大きく変えつつ、落ち着いて考えてみる必要がありますので、ちょっと「ティー・ブレイク」にいたしましょう。
🍵ティーブレイク「発送の転換」
私が子供のころに、「軍歌」が大好きな伯父の家に遊びにいくと、いつもたくさんの「軍歌」を聞かせてくれました。
戦時中に兵士や国民の士気高揚を図ることを目的に作られたものが多いので、リズミカルで、心弾むメロディーの曲も多かったように記憶しています。
その中で「月月火水木金金~」と歌う曲がありました。この「月月火水木金金~」が何を意味しているのかといえば、要するに「日曜日と土曜日がなくて、毎日、働いて頑張るぞー」ということを高らかに歌っているのです。
この「月月火水木金金~」という発想は、戦時中のことだけではないように思います。昭和の時代、お父さんたちが会社でバリバリと働くことは当たり前で、高度経済成長期の日本人は、外国から「エコノミック・アニマル」とか揶揄されることもありました。そうです。戦後、民主化は進んだわけですが、日々の人々の活動のスタイルや発想はまさに「月月火水木金金~」だったのです。
令和の時代になり、私たちの生活スタイルや考え方も大きく変わりましたが、私たちには、知らず知らず遺伝子の中に「月月火水木金金~」というものが叩き込まれているのではないでしょうか。
なぜならば、「南至投馬國水行二十日」と聞くと、「南の方角へ船で20日間、休まずどんどん進む」と感じてしまうところがその証拠です。
畿内説を唱えている方の中には、「南ではなく、東に向けて20日間、船でどんどん進んだ結果、畿内についた」と主張しておられる方もいらっしゃいますが、繰り返し申し上げているとおり、「倭国に来たら、突如、方角を間違えた!」などということはあり得ないと思いますので、念のため。
そして、「軍国主義」や「エコノミック・アニマル」は特に勘弁してほしいですね。よく考えるとそもそも「休まず、どんどん進む」とは一言も書かれていませんので、まずは、「月月火水木金金~」の発想を捨てることが肝心ですね。ゆっくり休憩してくださいませ。
いかがでしょうか。ゆっくりとティー・ブレイクをお楽しみいただけましたか?それでは、そろそろ本題へと戻りましょう!
「南至投馬國水行二十日」については、リラックスした頭で、見方を変えて考えると、『南の方に向け、船で20日間旅をして「投馬國」に至った』と言っているだけではないかということです。つまり、ティー・ブレイクで話題にした「月月火水木金金~」の発想を捨てると、「休まずどんどん進んだ」という呪縛から逃れられるので、
- あちらこちら寄り道をしながら、南の方向へと進んでいった 又は
- 南の方向へ向けて出発し、船を進め、20日間あちらこちらを見て回って、投馬國に至った
と言っているだけなのかもしれません。
(2)邪馬台国
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮 、可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
南へ船で十日、歩いて一か月にて「邪馬台国」に至ります。長官は「伊支馬」、副官は「彌馬升」、「彌馬獲支」、「奴佳」と言います。七万世帯以上あります。
ここでは、「投馬國」に至る旅程と同じく、南に船で10日間と歩いて1か月にて「邪馬壹國」に至ると書かれています。「邪馬壹國」の場所を探るには、さらに読み進める必要がありますので、ここでは次に進みましょう。
自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。
「女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができる」と言っていますので、ここからわかることは、作者が把握している女王の支配するエリアでみると、女王国がその南端にあるということです。そして、その他の国については、「遠絶」と言ってますので、すぐには行くことができない遠く離れたところにある国なので、詳細は分からないということですね。
ここから読み取れることは、「すぐには行くことができない遠く離れたところにある国々というのは女王国に属する国々ではない」ということです。なぜならば、支配下にあるならば、ここで紹介している倭人たち(長官の「伊支馬」や副官の「彌馬升」、「彌馬獲支」、「奴佳」ら)に聞けば、ある程度わかることなので、「不可得詳」とは書かないと考えられるからです。
したがって、そのように整理すると、
- 「作者が把握している女王の支配するエリア」が女王国(つまり「倭国」)ではないか
- 「邪馬壹國」は「倭国」の南端にあるのではないか
というような観点が見えてきます。
次有斯馬國、次有己百支國、次有伊邪國、次有郡支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
次に「斯馬國」があり、次に「己百支國」、次に「伊邪國」、「郡支國」、「彌奴國」、「好古都國」、「不呼國」、「姐奴國」、「對蘇國」、「蘇奴國」、「呼邑國」、「華奴蘇奴國」、「鬼國」、「爲吾國」、「鬼奴國」、「邪馬國」、「躬臣國」、「巴利國」、「支惟國」、「烏奴國」があり、そして次に「奴國」がある。これが女王の境界が尽きる所です。
「次有〇〇國、」という表現で、「斯馬國」から始まって、「奴國」まで21か国(「奴國」を除くと20か国)が出てきます。
「次に・・・、次に・・・」という書き方から、1番目の「斯馬國」、2番目の「己百支國」、と3番目の「伊邪國」、・・・と何かの順番で説明されているのだろうということはわかります。
ここで問題は、最後の「奴國」についてです。上述のとおり、「奴國」は「東南至奴國百里」で登場しましたので、「伊都國」から東南に百里のところにあることがわかっていますが、諸説を拝見していると、まったく同じ名前であるところは無視されて、あたかも別の国として捉える考え方もございます。
どちらの解釈が正しいのかについては、「次有奴國、此女王境界所盡。」という書き方から考えると、まったく同じ名前の別の国とみるよりも、上述ですでに説明した国とみる方が作者の意図に近いのではないかと思います。なぜならば、もし、まったく同じ名前の別の国であるならば、何か一言注釈を入れないとわかりずらい訳ですが、わずか数文字でそれは表現できるにもかかわらず何も書かなかったことになるので不自然です。つまり、上述にて登場した同じ国のことだと考えるほうが自然です。
さらに、「奴國」の次に「東行至不彌國百里」という記述が出てきましたね。そうです。「奴國」の次に「不彌國」という国が登場しました。しかしながら、ちょっと待ってください。「奴國」が女王国の境界だと言っているにもかかわらず、その東の方向に「不彌國」があると考えるのは違和感があります。なぜならば、「奴國」から見ると北西の方向に女王国に属する「伊都國」がありますので、女王国の境界だと言っている「奴國」から西側に女王国に属する国々があると考える方が自然だからです。
ただし、上述で指摘したように、「不彌國」については、「東へ百里行くと不彌國に至ります」と言っているだけなので、現在いる場所から次の拠点へと異動していると思いがちですが、そうとは限りません。「(伊都國から)東百里で不彌國に至ります」と言っているとも考えられるので、こちらの考えであればどうでしょうか?
このように考えると、「不彌國」は「奴國」の北側に位置することになり、「奴國」が女王国の境界だという説明にも齟齬はありません。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。」は、その南に「狗奴國」があり、男性の王がおり、その長官が「狗古智卑狗」です。女王国には属していません。
ここで初めて女王国に属さない国が登場します。あとの方の記述で、また戦いが起こり、国が大いに乱れる話が出てきますので、この「狗奴國」という女王国に属さない国が火種になることを伏線として書かれていると思います。
さて、次のフレーズでは邪馬台国の場所を探る上で、重要な記述が出てきますが、続きは次回の「邪馬台国の場所を探る【3】」にてご説明いたします。お楽しみに!
皆さま、「邪馬台国の場所を探る❷」はいかがでしたか。次回は、邪馬台国の場所の謎について、さらに検証を進めます。引き続き「邪馬台国の場所を探る❸」をご覧ください。
【参考文献】
- 青空文庫「魏志倭人伝」(陳壽)底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店(1951(昭和26)年11月5日第1刷発行、1983(昭和58)年9月10日第42刷発行)、底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本
- 古代史レポート「魏志倭人伝」
- 長崎県壱岐市ホームページ
- 琉球王朝の歴史~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~ 神部龍章の部屋
- 地図に円を描く(Leaflet API版)
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