【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
令和6年12月4日、神部龍章による学術論文『邪馬台国の場所を探る』を発表。邪馬壹國は、鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけて存在したと結論。最も有力な候補地は、宮崎県の西都原古墳群あたりと推定。「科学的根拠」から迫るアプローチと「文献解読」から迫るアプローチを重ね合わせることで、邪馬壹國の場所の特定が完成。
倭の五王❸~『古事記』の解読による検証~
今回は『古事記』の解読による検証です。宮内庁ホームページ「天皇系図」の古代歴代天皇の在位期間は、基本的に日本書紀の記述に基づいていますが、『宋書』倭国伝の解読による検証でご説明したとおり、これらは倭の五王に関する記録と全く一致しません。そこで、『古事記』に着目し、詳しく記述内容を紹介しつつ、『宋書』との対査を試みます。
倭の五王❷~『宋書』倭国伝の解読による検証!~
「倭の五王」のうち、第19代允恭天皇が「済」、第20代安康天皇が「興」、第21代雄略天皇が「武」である。中国古代史書『宋書』の中に「夷蛮伝」があり、「倭国伝」はその一部。主な内容は、宋朝に対する倭国王の朝貢と任官。倭の五王が朝鮮半島の覇権を視野に入れ、頻繁に宋朝に朝貢し、皇帝から任官されている様子が記載されている。
倭の五王❶~長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫る!~
『宋書』に登場する倭国の5代の王は、「讃」、「珍」、「済」、「興」、「武」という名前で登場します。日本古代の歴代天皇を指しますが、具体的に「どなたか?」は所説あります。本連載では、「宋書」の原文を忠実に読み、歴史的背景を整理しながら、倭の五王の謎に迫り、様々な観点から古代日本の年号が西暦何年なのかを解明して参ります。
邪馬台国の場所を探る❺(最終回)
「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、皆さま、大変お待たせしました。女王卑弥呼がいた邪馬台国、その女王国に従う国々を監察する伊都國、そして倭国の規模、さらに、女王国の南方に位置し、敵対する狗奴國の位置関係を作図することで明らかにいたします。
邪馬台国の場所を探る❹
「魏志倭人伝」に詳細に記載されている倭人の生活習慣や倭国の自然、そして諸国を観察する様子に触れた後、いよいよ「卑弥呼」が登場します。親魏倭王「卑彌呼」への「みことのり」、下賜された品々とそれらの意義、正始元年以降の出来事を経て、正始8年(西暦247年)卑弥呼が死亡します。そして、最後は彼女の死後の様子が描かれています。
邪馬台国の場所を探る❸
「魏志倭人伝」に書かれた内容を吟味するには、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえる必要があります。ある一節の中で「邪馬台国」の場所を書き表していたのです。これを読み解くには、きちんと中国古代の歴史故事を踏まえつつ、後漢の時代には確立していた「周碑算経」の中に登場する「一寸千里法」を使えば解決できるものだったのです。
邪馬台国の場所を探る❷
「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。」(女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。)、原文から謎を解く。作者の意図を読むことが肝要。「すぐには行くことができない遠く離れたところにある国々というのは女王国に属する国々ではない。」
邪馬台国の場所を探る❶
「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫ります。後漢の時代にすでに完成していた「周碑算経」という朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書の原文が示す方法「1寸千里法」等を用い、魏志倭人伝の距離・方位を正確に検証し、邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチ!
女性天皇と女系天皇【後編】
「女系天皇」とは、母親が天皇家の血筋の方で父親が他家の血筋の方が天皇に即位した場合を意味します。初代の神武天皇から現在の今上天皇まで126代の天皇が即位され、全員「男系天皇」ですが、第29代欽明天皇は、母親から仁徳天皇以降のお血筋を受け継ぐことで、当時の社会においてもその正当性が受け入れられたという歴史的事実等を解説![…]
☆女性天皇と女系天皇【前編】
女性天皇と女系天皇、一字違うだけであるが意味は全く違う。歴史上、女性天皇は8名の方がいらっしゃった。現在の皇室典範では男系の男子が皇位を継承することが定められているが、これは歴史上の事実が軽視されている。過去の女性天皇がどのような経緯で即位されたのか、果たされたお役目は何かなどについて詳しく解説する[…]
☆足利義満と勘合貿易
~明国皇帝に冊封を申し出た偉人~
1401年、義満は「日本国准三后源道義」と名乗り、明国に使節を派遣する。明国の第二代皇帝・建文帝から日本国君主として認められる。翌年1402年、明国から詔書には「日本国王源道義」と記され、また、義満自身も「日本国王臣源」として返書を送り明の冊封を受けた。冊封体制の成立である。日本と明国との間で勘合貿易が始まる […]
☆老中阿部正弘と大老井伊直弼
~二人の米国人に対抗した日本の偉人たち~
老中阿部正弘は、ペリー来航から日米和親条約締結に至る歴史的難局を乗り切った。若くして難局を乗り切った歴史上の偉人だ。ペリーは浦賀の前に琉球王国を訪問していた。大老井伊直弼は、安政の大獄の印象が強い人物であるが、「横浜開港」に貢献した偉人だ。ハリス総領事の強力な主張に対し、既成事実を積み上げて押し切った […]
☆琉球王朝の歴史
~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~
沖縄では「万国津梁の精神」という言葉がある。万国津梁之鐘にその記録が残ることに由来する。万国津梁とは「世界の架け橋」という意味だ。沖縄の発展や未来展望を語る際には欠かせない。琉球王朝は、国際貿易で大繁栄を極めた。その鍵は明国の朝貢貿易と冊封体制にある。なぜ小さな島の王朝が大繁栄したのか、その謎に迫る […]
作家・歴史研究家の神部龍章による論文
皆さま、こんにちは。作家・歴史研究家の神部龍章です。令和6年12月4日、神部龍章による論文『邪馬壹國の場所を探る』を発表させていただきました。「神部龍章の部屋」における短編歴史物エッセイ《連載・邪馬台国の場所を探る❶~❺》と合わせてご一読いただければ幸いです。
論文の概要
(1)目的
『魏志倭人伝』によれば、三世紀前半の景初2年(西暦238年)、邪馬壹國の卑弥呼が魏の皇帝に朝貢の使者を送り、「親魏倭王」の称号を得たとされている。魏の皇帝、つまり、「魏」「呉」「蜀」の三国が並び立つ三国志の時代である。それより以前の後漢時代において、『周碑算経』と呼ばれる天文学・測量学の教養書が存在し、太陽の南中高度を測り、「一寸千里法」という手法を用い、南北間の距離を正確に測定する技術が既に確立していた。
『魏志倭人伝』において、朝鮮半島の帯方郡から倭国への行程が記される際に「一千余里」等の表現がしばしば登場するが、これらは「当時の測量技術を用いて測定されたものであった」との仮説は十分に成り立つ。特に、周碑算経の手法は、「太陽の南中高度の測定」を基本としているため、知見を有する者であれば、太陽の位置を確認し、地面に棒を立てれば、簡単に南北間の距離を正確に測定できるものであり、それは、倭国への渡航中であっても容易に測定できたと考えられる。
したがって、『魏志倭人伝』に登場する距離と方位は、すべて『周碑算経』に基づくとの仮説を立て、これらを検証すれば、「邪馬壹國の場所を探る」上で重要な手掛かりを得られるものと思料する。本稿は、この仮説に基づく検証を通じ、「邪馬壹國の場所を探る」ことを研究の目的とする。
(2)検証・考察
<第1章 後漢時代に成立した天文学・測量学の教養書『周碑算経』>においては、本研究の基本となる一千里の距離について現在の単位への換算値を検証する。次に、<第2章 魏志倭人伝の原文から距離を検証>では、帯方郡から狗邪韓國までの距離七千余里の他、狗邪韓國から対馬、壱岐、九州北岸までの各距離について、個々に検証を行い、第1章で確認した距離単位が正しいことを確認・証明する。
<第3章 伊都國から邪馬壹國へ>においては、『魏志倭人伝』の記述に従い、行程順に「邪馬壹國の場所を探る」上で、重要なポイントとなる記載内容について、個々に吟味し、検証を進め、検証結果を掲げていく作業を進める。また、『魏志倭人伝』の解読を進める上で、重要なことは古代中国の歴史故事や歴史的背景等を十分に把握していないと正しい解釈ができないことに直面する。そのため、<第4章 魏志倭人伝の記述に関連する中国古代歴史故事>においては、中国故事や歴史的背景等における様々な観点からのアプローチを追加し、検証をさらに進める。
最後に、「考察」である。<第5章 邪馬壹國の場所に関する考察>においては、上述で得られた検証結果を踏まえ、倭国を構成する国々のうち、最も重要な2つの国(伊都國及び邪馬壹國)について考察し、その場所の特定を試みる。
(3)結論
最初に、女王国において諸国の監察を担う「伊都國」について考察。魏志倭人伝の記述、有明海周辺における当時の地形が縄文海進の影響を受けていた事実から佐賀市周辺(吉野ケ里遺跡あたり)と結論。
次に、「邪馬壹國の場所」について考察。「計其道里、當在會稽東冶之東。」(その位置を計ってみると、ちょうど會稽東冶の東にある。)については、『魏志倭人伝』及び『史記』の解読並びに「會稽東冶」に関する検証結果を踏まえ、鹿児島県や宮崎県南部あたりの場所を指し示すと結論。
「自郡至女王國萬二千餘里」(帯方郡から女王国は一万二千里余である。)について、『周碑算経』及び『魏志倭人伝』に基づく検証結果を踏まえ、帯方郡からの直線距離約12,000里が示す場所のうち、上述の「當在會稽東冶之東。」が指し示す場所と交わる場所があることを確認し、邪馬壹國は、鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけて存在したと結論。そして、その最も有力な候補として、直接邪馬壹國の存在を示す遺跡ではないが、集落規模等を勘案し、宮崎県の西都原古墳群あたりと推定。
本稿の総括においては、第1章から第4章までの様々な観点からの検証で得られた9つの検証結果、そして第5章における4つの考察結果を有機的に統合し、倭国全体図を作図し、「科学的根拠」から迫るアプローチと「文献解読」から迫るアプローチから得た情報を重ね合わせることで、邪馬壹國の場所の特定が完成した。