短編歴史物エッセイ

倭の五王❸

【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
【論文】『邪馬壹國の場所を探る』

令和6年12月4日、神部龍章は学術論文『邪馬台国の場所を探る』を発表。邪馬壹國は、鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけて存在したと結論。最も有力な候補地は、宮崎県の西都原古墳群あたりと推定。「科学的根拠」から迫るアプローチと「文献解読」から迫るアプローチを重ね合わせることで邪馬壹國の場所の特定が完成。

倭の五王❸『古事記』の解読による検証
倭の五王❸『古事記』の解読による検証

『古事記』の解読による検証。宮内庁ホームページ「天皇系図」の古代歴代天皇の在位期間は、基本的に日本書紀の記述に基づいていますが、『宋書』倭国伝の解読による検証でご説明したとおり、これらは倭の五王に関する記録と全く一致しません。そこで、『古事記』に着目し、詳しく記述内容を紹介しつつ、『宋書』との対査を試みます。

倭の五王❷『宋書』の解読による検証!
倭の五王❷『宋書』の解読による検証!

倭の五王のうち、第19代允恭天皇が「済」、第20代安康天皇が「興」、第21代雄略天皇が「武」である。中国古代史書『宋書』の中に「夷蛮伝」があり「倭国伝」はその一部。主な内容は宋朝に対する倭国王の朝貢と任官。倭の五王が朝鮮半島の覇権を視野に入れ、頻繁に宋朝に朝貢し、皇帝から任官されている様子が記載されている。

倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!
倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!

『宋書』に登場する倭国の5代の王は、「讃」「珍」「済」「興」「武」という名前で登場。日本古代の歴代天皇を指しますが、具体的に「どなたか?」は所説あります。本連載では、「宋書」の原文を忠実に読み、歴史的背景を整理しながら、倭の五王の謎に迫り、様々な観点から古代日本の年号が西暦何年なのかを解明して参ります。

邪馬台国の場所を探る❺(最終回)
邪馬台国の場所を探る❺(最終回)

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、大変お待たせしました。女王卑弥呼がいた邪馬台国、その女王国に従う国々を監察する伊都國、そして倭国の規模、さらに、女王国の南方に位置し、敵対する狗奴國の位置関係を作図することで明らかにいたします。

邪馬台国の場所を探る❹
邪馬台国の場所を探る❹

『魏志倭人伝』に詳細に記載されている倭人の生活習慣や倭国の自然、そして諸国を観察する様子に触れた後、いよいよ卑弥呼が登場。親魏倭王・卑彌呼への「みことのり」、下賜された品々とそれらの意義、正始元年以降の出来事を経て、正始8年(西暦247年)卑弥呼が死亡します。そして、最後は彼女の死後の様子が描かれています。

邪馬台国の場所を探る❸
邪馬台国の場所を探る❸

『魏志倭人伝』の内容を吟味するには、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえる必要があります。ある一節の中で「邪馬台国」の場所を書き表していたのです。これを読み解くには、きちんと中国古代の歴史故事を踏まえつつ、後漢の時代には確立していた「周碑算経」の中に登場する「一寸千里法」を使えば解決できるものだったのです。

邪馬台国の場所を探る❷
邪馬台国の場所を探る❷

「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。」女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。原文から謎を解く。作者の意図を読むことが肝要。すぐには行くことができない遠く離れたところにある国々というのは女王国に属する国々ではない。

邪馬台国の場所を探る❶
邪馬台国の場所を探る❶

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が伝えたかった事実を解明し、邪馬台国の場所の謎に迫ります。後漢の時代にすでに完成していた「周碑算経」という朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書の原文が示す方法「1寸千里法」等を用い、魏志倭人伝の距離・方位を正確に検証し、邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチ!

女性天皇と女系天皇【後編】
女性天皇と女系天皇【後編】

「女系天皇」とは、母親が天皇家の血筋で父親が他家の血筋の方が天皇に即位した場合を意味します。初代の神武天皇から現在の今上天皇まで126代の天皇が即位され、全員「男系天皇」ですが、第29代欽明天皇は、母親から仁徳天皇以降のお血筋を受け継ぐことで、当時の社会においてもその正当性が受け入れられたという歴史的事実等を解説!

女性天皇と女系天皇【前編】
女性天皇と女系天皇【前編】

女性天皇と女系天皇、一字違うだけであるが意味は全く違う。歴史上、女性天皇は8名の方がいらっしゃった。現在の皇室典範では男系の男子が皇位を継承することが定められているが、これは歴史上の事実が軽視されている。過去の女性天皇がどのような経緯で即位されたのか、果たされたお役目は何かなどについて詳しく解説。

足利義満と勘合貿易
足利義満と勘合貿易

~明国皇帝に冊封を申し出た偉人~
1401年、義満は「日本国准三后源道義」と名乗り、明国に使節を派遣する。明国の第二代皇帝・建文帝から日本国君主として認められる。翌年1402年、明国から詔書には「日本国王源道義」と記され、また、義満自身も「日本国王臣源」として返書を送り明の冊封を受けた。冊封体制の成立である。日本と明国との間で勘合貿易が始まる。

阿部正弘と井伊直弼
阿部正弘と井伊直弼

~二人の米国人に対抗した日本の偉人たち~
老中阿部正弘は、ペリー来航から日米和親条約締結に至る歴史的難局を乗り切った。若くして難局を乗り切った歴史上の偉人だ。ペリーは浦賀の前に琉球王国を訪問していた。大老井伊直弼は、安政の大獄の印象が強い人物であるが、「横浜開港」に貢献した偉人だ。ハリス総領事の強力な主張に対し、既成事実を積み上げて押し切った 。

琉球王朝の歴史
琉球王朝の歴史

~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~
沖縄では「万国津梁の精神」という言葉がある。万国津梁之鐘にその記録が残ることに由来する。万国津梁とは「世界の架け橋」という意味だ。沖縄の発展や未来展望を語る際には欠かせない。琉球王朝は、国際貿易で大繁栄を極めた。その鍵は明国の朝貢貿易と冊封体制にある。なぜ小さな島の王朝が大繁栄したのか、その謎に迫る 。

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【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
倭の五王❸『古事記』の解読による検証
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『古事記』の解読による検証

1.古事記

 皆さま、こんにちは。神部龍章です。短編歴史物エッセイの(新連載)「倭の五王❷~『宋書』倭国伝の解読による検証!~」はいかがでしたでしょうか?今回の「倭の五王❸」では、『古事記』の解読による検証を行います。皆さま、よくご承知のとおり、『古事記』は、『日本書紀』とともに、古代日本の歴史を知る上では欠かせない歴史文献です。古事記の記述に従い、その解明を行い、「倭の五王」に関するお話をわかりやすく解説いたします。古代日本の歴史文献の解読をお楽しみくださいませ。

こじき【古事記】

奈良時代の歴史書。3巻。天武天皇の勅命で稗田阿礼ひえだのあれが誦習しょうしゅうした帝紀や先代旧辞を、元明天皇の命で太安万侶おおのやすまろが文章に記録し、和銅5年(712)に献進。日本最古の歴史書で、天皇による支配を正当化しようとしたもの。上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含む。

(出典)デジタル大辞泉 「古事記」

 さて、ここで改めて「今回、なぜ日本書紀ではなく、古事記に着目するのか?」について簡単に説明させていただきます。「倭の五王❶~長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫る!~」では、宮内庁ホームページ「天皇系図」に基づき、古代歴代天皇の在位期間などを一覧表にしてご紹介いたしましたが、この年数は、基本的には日本書紀の記述に基づいています。しかしながら、「倭の五王❷~『宋書』倭国伝の解読による検証!~」でご説明したとおり、これらの在位期間を用いると、『宋書』の中に登場する倭の五王に関する記録と全く一致しません。

 古事記においては、第16代仁徳天皇、第17代履中天皇、第18代反正天皇、第19代允恭天皇及び第21代雄略天皇について、「崩年干支」(ほうねんかんし)が記されています。「崩年干支」というのは、古事記において、歴代天皇のうち、第10代崇神天皇から第33代推古天皇に至る24代のうち15代の天皇の崩御年が干支で記されていることを言います。また、第20代安康天皇については、残念ながら崩年干支の記載はございませんが、崩御された年齢の記載がございます。したがって、古事記をしっかりと解読することで、「倭の五王に関する知見が得られるのではないか?」という観点に立ち、崩年干支の記述などをもとにして、さらに検証を進めたいと考えております。

 なお、『古事記』の原文を直接ご覧になりたい方は、以下のサイトで閲覧することができますので、お試しください。

 ウエブサイト「古事記について、全文検索」において、古事記の原文を閲覧することができます。

 本稿における検証では、「古事記下巻-1/仁徳天皇」、「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」及び「古事記下巻-3/雄略天皇」を引用させていただきました。わかりやすい資料提供に感謝申し上げます。 

2.倭の五王の時代における歴代天皇に関する記述

(1)第16代仁徳天皇

大雀命、坐難波之高津宮、治天下也。此天皇、娶葛城之曾都毘古之女・石之日賣命大后、生御子、大江之伊邪本和氣命、次墨江之中津王、次蝮之水齒別命、次男淺津間若子宿禰命。四柱。又娶上云日向之諸縣君牛諸之女・髮長比賣、生御子、波多毘能大郎子自波下四字以音、下效此・亦名大日下王、次波多毘能若郎女・亦名長日比賣命・亦名若日下部命。二柱。又娶庶妹八田若郎女、又娶庶妹宇遲能若郎女、此之二柱、無御子也。凡此大雀天皇之御子等、幷六王。男王五柱、女王一柱。故、伊邪本和氣命者、治天下也、次蝮之水齒別命亦、治天下、次男淺津間若子宿禰命亦、治天下也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-1/仁徳天皇」

 大雀命(おおさざきのみこと、第16代仁徳天皇)は、難波の高津宮に座して天下を治めました。この天皇は、葛城の曾都毘古の娘である石之日賣命を大后として娶り、以下の子供をもうけました:

 第一皇子:大江之伊邪本和氣命(おおえのいざほわけのみこと、第17代履中天皇)

 第二皇子:墨江之中津王(すみのえのなかつみこ)、

 第三皇子:蝮之水齒別命(たじひのみずはわけのみこと、第18代反正天皇)

 第四皇子:男淺津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと、第19代允恭天皇)

の四柱です。

 また、日向の諸縣君牛諸の娘である髮長比賣を娶り、以下の子供をもうけました:波多毘能大郎子(大日下王とも呼ばれる)、波多毘能若郎女(長日比賣命、若日下部命とも呼ばれる)の二柱です。さらに、庶妹の八田若郎女と宇遲能若郎女を娶りましたが、この二人との間には子供はできませんでした。

 大雀天皇の子供たちは、合わせて六王です。男王が五柱、女王が一柱です。伊邪本和氣命は天下を治め、次に蝮之水齒別命も天下を治め、次に男淺津間若子宿禰命も天下を治めました。

 さて、このあと、仁徳天皇について、多くの逸話が記載されています。ご関心ある方は、原文などでお楽しみくださいませ。さて、最後に、「崩年干支」の記述が出てきます。

此天皇御年、捌拾參歲。丁卯年八月十五日崩也。御陵在毛受之耳上原也。。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-1/仁徳天皇」

 この天皇は八十三歳で崩御されました。丁卯年(ひのとうのとし)の八月十五日のことです。御陵は毛受の耳上原にあります。

(2)第17代履中天皇

 履中天皇に関する古事記の記述は、概要以下のとおり。

  • 伊邪本和氣命(いざほわけのみこと、第17代履中天皇、第16代仁徳天皇の長子)は、伊波禮の若櫻宮に座して天下を治めました。この天皇は、黒比賣命(くろひめのみこと)を妻とし、息子二人と娘一人をもうけました。
  • 天皇が難波宮にて、大嘗祭(だいじょうさい)を行い、豊明(とよあかり)の儀式の際に、お酒を飲んで寝ていたときに、弟の墨江中王(すみのえのなかつみこ、仁徳天皇の第二皇子)が天皇を奪おうとして、大殿に火をつけたので、阿知直(あちのあたい)が天皇を馬に乗せて倭(やまと、奈良))に逃がしました。
  • その後、伊呂弟水齒別命(いろおとみずはわけのみこと、第18代反正天皇、仁徳天皇の第三皇子)が謁見しましたが、天皇は信頼せず、「邪心がないならば、今すぐ墨江中王を殺して来い。」と命じました。水齒別命は難波に戻り、墨江中王の近習の曾婆訶理(そばかり)を騙して「もし私の言うことを聞けば、私は天皇となり、お前を大臣にして天下を治めさせる」と告げ、曾婆訶理はこれに応じます。
  • 曾婆訶理は王が厠に入るのを見計らって矛で刺して殺しました。水齒別命は、曾婆訶理を連れて倭に戻り、大坂山口に到着し、「今日はここに留まり、大臣の位を授ける。明日、倭に戻る」と告げ、仮の宮を造り、豊楽(とよのあかり)を行い、曾婆訶理に大臣の位を授け、百官に拝礼させました。曾婆訶理は喜び、志を遂げたと思いました。
  • 水齒別命は、曾婆訶理に「今日は大臣と同じ盞(さかずき)の酒を飲もう」と言い、共に酒を飲むとき、大鋺(おおわん)で顔を隠し、酒を注ぎました。王子が先に飲み、曾婆訶理が後で飲むとき、大鋺で顔を覆い、席下の剣を取り出して曾婆訶理の首を斬りました。そして翌日、倭に戻りました。石上神宮(いそのかみじんぐう)に参拝し、天皇に「政が平定されました」と報告しました。天皇は阿知直(あちのあたい)を蔵官(くらのつかさ)に任命し、粮地(かてち)を与えました。
  • 天皇は六十四歳で崩御されました。壬申年(みずのえさるのとし)の正月三日のことです。御陵は毛受(もず)にあります。

 さて、詳しく見て参りましょう!

子、伊邪本和氣命、坐伊波禮之若櫻宮、治天下也、此天皇、娶葛城之曾都毘古之子・葦田宿禰之女・名黑比賣命、生御子、市邊之忍齒王、次御馬王、次妹青海郎女・亦名飯豐郎女。三柱。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 伊邪本和氣命(いざほわけのみこと、第17代履中天皇、第16代仁徳天皇の長子)は、伊波禮の若櫻宮に座して天下を治めました。この天皇は、葛城の曾都毘古(そつびこのみこと)の子である葦田宿禰(あしだのすくね)の娘、黒比賣命(くろひめのみこと)を妻とし、市邊之忍齒王(いちべのおしはのみこ)、御馬王(みまのおう)、妹青海郎女(いもあおみのいらつめ)またの名を飯豐郎女(いいとよのいらつめ)の三柱の子供をもうけました。

本坐難波宮之時、坐大嘗而爲豐明之時、於大御酒宇良宜而大御寢也。爾其弟墨江中王、欲取天皇、以火著大殿。於是、倭漢直之祖・阿知直、盜出而乘御馬令幸於倭。故到于多遲比野而寤、詔「此間者何處。」爾阿知直白「墨江中王、火著大殿。故率逃於倭。」爾天皇歌曰

多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆

到於波邇賦坂、望見難波宮、其火猶炳。爾天皇亦歌曰、

波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理

故、到幸大坂山口之時、遇一女人、其女人白之「持兵人等、多塞茲山。自當岐麻道、廻應越幸。」爾天皇歌曰、

淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流

故、上幸坐石上神宮也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 天皇が難波宮にいたとき、大嘗祭(だいじょうさい)を行い、豊明(とよあかり)の儀式を行っている最中に、大御酒(おおみき)を飲んで寝てしまいました。そのとき、弟の墨江中王(すみのえのなかつみこ、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)とも呼ばれ、第16代仁徳天皇の第二皇子))が天皇を奪おうとして、大殿に火をつけました。そこで、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖である阿知直(あちのあたい)が天皇を盗み出し、馬に乗せて倭(やまと、奈良)に逃がしました。多遲比野(たじひの)に到着したとき、天皇は目を覚まし、「ここはどこか」と尋ねました。阿知直は「墨江中王が大殿に火をつけたので、倭に逃げてきました」と答えました。

 そこで天皇は歌を詠みました。『多遲比野に 寝むと知りせば 立つ杖も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば』

 波邇賦坂(はにふさか)に到着し、難波宮を望むと、まだ火が燃えていました。そこで天皇は再び歌を詠みました。『波邇賦坂 我が立ち見れば 陰火の 燃ゆる家もが 妻が家のあたり』

 大坂山口に到着したとき、一人の女性に出会いました。その女性は「兵を持った人々が山を塞いでいます。当岐麻道(あたぎまのみち)から回って越えるべきです」と言いました。そこで天皇は歌を詠みました。『大坂に 逢ふや乙女を 道問へば 多陀に波のらず 当岐麻道を行く』そして、石上神宮(いそのかみじんぐう)に到着しました。

於是、其伊呂弟水齒別命、參赴令謁。爾天皇令詔「吾疑汝命若與墨江中王同心乎、故不相言。」答白「僕者無穢邪心、亦不同墨江中王。」亦令詔「然者今還下而、殺墨江中王而上來、彼時吾必相言。」故卽還下難波、欺所近習墨江中王之隼人・名曾婆加理云「若汝從吾言者、吾爲天皇、汝作大臣、治天下那何。」曾婆訶理答白「隨命。」

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 その後、伊呂弟水齒別命(いろおとみずはわけのみこと、第18代反正天皇、仁徳天皇の第三皇子)が参上して謁見しました。天皇は「お前が墨江中王と同じ心を持っているのではないかと疑っているので、話をしない」と言いました。水齒別命は「私は邪心を持っておらず、墨江中王とも同じ心ではありません」と答えました。天皇は「それならば、今すぐ戻って墨江中王を殺してから戻って来い。その時に話をしよう」と命じました。水齒別命は難波に戻り、墨江中王に仕える隼人の曾婆訶理(そばかり)を騙して「もし私の言うことを聞けば、私は天皇となり、お前を大臣にして天下を治めさせる」と言いました。曾婆訶理は「お言葉に従います」と答えました。

爾多祿給其隼人曰「然者殺汝王也。」於是曾婆訶理、竊伺己王入厠、以矛刺而殺也。故率曾婆訶理、上幸於倭之時、到大坂山口、以爲「曾婆訶理、爲吾雖有大功、既殺己君是不義。然、不賽其功、可謂無信。既行其信、還惶其情。故、雖報其功、滅其正身。」是以、詔曾婆訶理「今日留此間而、先給大臣位、明日上幸。」留其山口、卽造假宮、忽爲豐樂、乃於其隼人賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜、以爲遂志。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 水齒別命は曾婆訶理に「それならば、お前の王を殺せ」と命じました。曾婆訶理は王が厠に入るのを見計らって、矛で刺して殺しました。水齒別命は曾婆訶理を連れて倭に戻り、大坂山口に到着しました。そこで「曾婆訶理は大きな功績を立てたが、自分の君主を殺すのは不義である。しかし、その功績を報いないのは信義に反する。信義を行えば、その情を恐れる。だから、功績を報いながらも正しい身を滅ぼす」と考えました。そこで水齒別命は曾婆訶理に「今日はここに留まり、大臣の位を授ける。明日、倭に戻る」と言いました。山口に留まり、仮の宮を造り、豊楽(とよのあかり)を行い、曾婆訶理に大臣の位を授け、百官に拝礼させました。曾婆訶理は喜び、志を遂げたと思いました。

爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。故、參出石上神宮、令奏天皇「政既平訖參上侍之。」爾召入而相語也。天皇於是、以阿知直、始任藏官、亦給粮地。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 水齒別命は曾婆訶理に「今日は大臣と同じ盞(さかずき)の酒を飲もう」と言いました。共に酒を飲むとき、大鋺(おおわん)で顔を隠し、酒を注ぎました。王子が先に飲み、曾婆訶理が後に飲みました。曾婆訶理が飲むとき、大鋺で顔を覆い、席下の剣を取り出して曾婆訶理の首を斬りました。そして翌日、倭に戻りました。その地を「近飛鳥(ちかつあすか)」と呼びました。倭に到着し、「今日はここに留まり、禊(みそぎ)を行い、明日神宮に参拝する」と言いました。その地を「遠飛鳥(とおつあすか)」と呼びました。石上神宮(いそのかみじんぐう)に参拝し、天皇に「政が平定されました」と報告しました。天皇は阿知直(あちのあたい)を蔵官(くらのつかさ)に任命し、粮地(かてち)を与えました。

亦此御世、於若櫻部臣等、賜若櫻部名、又比賣陀君等、賜姓謂比賣陀之君也。亦、定伊波禮部也。天皇之御年、陸拾肆歲。壬申年正月三日崩。御陵在毛受也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 また、この御世に若櫻部臣(わかざくらべのおみ)に若櫻部の名を賜り、比賣陀君(ひめだのきみ)に姓を賜りました。また、伊波禮部(いわれべ)を定めました。天皇は六十四歳で崩御されました。壬申年(みずのえさるのとし)の正月三日のことです。御陵は毛受(もず)にあります。

(3)第18代反正天皇

 反正天皇に関する古事記の記述は、概要以下のとおり。

  • 弟の水齒別命(みずはわけのみこと、第18代反正天皇)は、多治比の柴垣宮に座して天下を治めました。天皇は、都怒郎女(つののいらつめ)を妻とし、二人の娘をもうけました。また、弟比賣(おとひめ)を妻とし、一人の息子と一人の娘をもうけました。
  • 天皇は六十歳で崩御されました。丁丑年(ひのとうしのとし)の七月のことです。御陵は毛受野(もずの)にあります。

 さて、詳しく見て参りましょう!

弟、水齒別命、坐多治比之柴垣宮、治天下也。此天皇、御身之長、九尺二寸半。御齒長一寸廣二分、上下等齊、既如貫珠。天皇、娶丸邇之許碁登臣之女・都怒郎女、生御子、甲斐郎女、次都夫良郎女。二柱。又娶同臣之女・弟比賣、生御子、財王、次多訶辨郎女。幷四王也。天皇之御年、陸拾歲。丁丑年七月崩。御陵在毛受野也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 弟の水齒別命(みずはわけのみこと、第18代反正天皇)は、多治比の柴垣宮に座して天下を治めました。この天皇の身長は九尺二寸半(約2.8メートル)で、歯の長さは一寸(約3センチメートル)、幅は二分(約0.6センチメートル)で、上下の歯が揃っており、まるで貫珠(つらぬきたま)のようでした。天皇は、丸邇の許碁登臣(まるにのこごとおみ)の娘である都怒郎女(つののいらつめ)を妻とし、甲斐郎女(かいのいらつめ)と都夫良郎女(つぶらのいらつめ)の二柱の子供をもうけました。また、同じ臣の娘である弟比賣(おとひめ)を妻とし、財王(たからのおう)と多訶辨郎女(たかべのいらつめ)の四柱の子供をもうけました。天皇は六十歳で崩御されました。丁丑年(ひのとうしのとし)の七月のことです。御陵は毛受野(もずの)にあります。

(4)第19代允恭天皇

 允恭天皇に関する古事記の記述は、概要以下のとおり。

  • 弟の男淺津間若子宿禰命(第19代允恭天皇)は、遠飛鳥宮に座して天下を治めました。この天皇は、大中津比賣命を娶り、5男4女をもうけました。この九人の中で、穴穗命(第20代安康天皇)大長谷命(第21代雄略天皇)が天下を治めました。
  • 天皇は「私は長い病にかかっており、日繼を継ぐことができない」と辞退しましたが、大后と諸卿の強い要請により、天下を治めることになりました。御調の大使である金波鎭漢紀武は薬方に詳しく、天皇の病を治しました。(※宮内庁の天皇系図においても、反正天皇の崩御後、2年後に允恭天皇が即位なさっています。)
  • 天皇は七十八歳で崩御されました。甲午年(きのえうまのとし)正月十五日のことです。御陵は河内の惠賀長枝にあります。

 さて、詳しく見て参りましょう!

弟、男淺津間若子宿禰命、坐遠飛鳥宮、治天下也。此天皇、娶意富本杼王之妹・忍坂之大中津比賣命、生御子、木梨之輕王、次長田大郎女、次境之黑日子王、次穴穗命、次輕大郎女・亦名衣通郎女御名所以負衣通王者、其身之光自衣通出也、次八瓜之白日子王、次大長谷命、次橘大郎女、次酒見郎女。九柱。凡天皇之御子等、九柱。男王五、女王四。此九王之中、穴穗命者治天下也、次大長谷命治天下也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 弟の男淺津間若子宿禰命(第19代允恭天皇)は、遠飛鳥宮に座して天下を治めました。この天皇は、意富本杼王の妹である忍坂の大中津比賣命を娶り、以下の子供をもうけました:木梨之輕王、長田大郎女、境之黑日子王、穴穗命、輕大郎女(衣通郎女とも呼ばれ、その名の由来はその身の光が衣を通して輝いたことから)、八瓜之白日子王、大長谷命、橘大郎女、酒見郎女の九柱です。天皇の子供たちは、男王が五人、女王が四人でした。この九人の中で、穴穗命(第20代安康天皇)大長谷命(第21代雄略天皇)が天下を治めました。

天皇初爲將所知天津日繼之時、天皇辭而詔之「我者有一長病、不得所知日繼。」然、大后始而諸卿等、因堅奏而乃治天下。此時、新良國主、貢進御調八十一艘。爾御調之大使・名云金波鎭漢紀武、此人深知藥方、故治差帝皇之御病。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 天皇が天津日繼を継ごうとした時、天皇は「私は長い病にかかっており、日繼を継ぐことができない」と辞退しました。しかし、大后と諸卿の強い要請により、天下を治めることになりました。この時、新良国の主が八十一艘の御調を貢ぎました。御調の大使である金波鎭漢紀武は薬方に詳しく、天皇の病を治しました。

於是天皇、愁天下氏氏名名人等之氏姓忤過而、於味白檮之言八十禍津日前、居玖訶瓮而玖訶二字以音定賜天下之八十友緖氏姓也。又爲木梨之輕太子御名代、定輕部、爲大后御名代、定刑部、爲大后之弟・田井中比賣御名代、定河部也。天皇御年、漆拾捌歲。甲午年正月十五日崩。御陵在河內之惠賀長枝也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 天皇は、天下の氏姓が乱れていることを憂い、味白檮の言八十禍津日前に玖訶瓮を置き、天下の八十友緖氏姓を定めました。また、木梨之輕太子の御名代として輕部を、大后の御名代として刑部を、大后の弟・田井中比賣の御名代として河部を定めました。天皇は七十八歳で崩御されました。甲午年(きのえうまのとし)正月十五日のことです。御陵は河内の惠賀長枝にあります。

 さて、このあと、允恭天皇の崩御後のお話が出てきます。長子の木梨之輕太子が日繼を継ぐことになりましたが、なんと即位前に美しい妹の輕大郎女と関係を持ってしまいます。そのため、百官や天下の人々は輕太子に背を向け、穴穗御子(第20代安康天皇)に従い、家督争いとなりますが、結局は、輕太子は捕らえられ、流刑となり、最後は自害して亡くなってしまうというストーリーが和歌とともに展開します。ご関心ある方は、原文などでお楽しみくださいませ。

(5)第20代安康天皇

 安康天皇に関する古事記の記述は、概要以下のとおり。

  • 穴穗御子(第20代安康天皇)は石上の穴穗宮に座して天下を治めました。天皇は弟の大長谷王子(第21代雄略天皇)のために、坂本臣の祖である根臣を大日下王(仁徳天皇と日向髪長媛の間に生まれた大草香皇子(おおくさかのみこ))のもとに遣わし「あなたの妹である若日下王を大長谷王子の妻にしたい」と告げさせますが、根臣の天皇への讒言により、天皇は、大日下王を殺し、その王の嫡妻である長田大郎女を皇后にします。
  • その後、天皇は昼寝をしている際に、后の先子である目弱王(当時七歳、大日下王の息子)が殿下で遊んでいることに気が付かず、「私は常に思うことがある。汝の子目弱王が成人した時、私がその父王を殺したことを知ったら、邪心を抱くのではないか」と皇后に告げた言葉を聞かれてしまい、目弱王は、天皇が寝ている間に大刀を取り、天皇の首を斬りました。
  • 天皇は五十六歳で崩御されました。御陵は菅原の伏見岡にあります。(※残念ながら安康天皇については崩年干支が記載されていません。)

 さて、詳しく見て参りましょう!

御子、穴穗御子、坐石上之穴穗宮、治天下也。天皇、爲伊呂弟大長谷王子而、坂本臣等之祖・根臣、遣大日下王之許、令詔者「汝命之妹・若日下王、欲婚大長谷王子。故可貢。」爾大日下王、四拜白之「若疑有如此大命。故不出外、以置也。是恐、隨大命奉進。」然、言以白事、其思无禮、卽爲其妹之禮物、令持押木之玉縵而、貢獻。根臣、卽盜取其禮物之玉縵、讒大日下王曰「大日下王者、不受勅命曰『己妹乎、爲等族之下席』而、取横刀之手上而怒歟。」故、天皇大怒、殺大日下王而、取持來其王之嫡妻・長田大郎女、爲皇后。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 穴穗御子(第20代安康天皇)は石上の穴穗宮に座して天下を治めました。天皇は弟の大長谷王子(第21代雄略天皇)のために、坂本臣の祖である根臣大日下王(仁徳天皇と日向髪長媛の間に生まれた大草香皇子(おおくさかのみこ))のもとに遣わし、「あなたの妹である若日下王を大長谷王子の妻にしたいので、差し出すように」と命じました。大日下王はこれを聞いて、「このような大命があるとは思わなかったので、外に出さずに置いていました。恐れ多いことですが、大命に従い差し出します」と答えました。しかし、その言葉の中には天皇に対する無礼な態度や思いが含まれていたと解釈され、そのため、妹の若日下王を嫁がせる際の礼物として押木の玉縵を持たせて献上することになったのです。根臣はその礼物の玉縵を盗み取り、大日下王が「自分の妹を等族の下席にするとは何事か」と怒って横刀を取った(大日下王が妹を大長谷王子の妻にすることを「等族の下席に置かれる」と感じ、これを屈辱的だと考え、怒りのあまり刀を手に取って抗議しようとした)と讒言しました。これにより天皇は激怒し、大日下王を殺し、その王の嫡妻である長田大郎女を皇后としました。

自此以後、天皇坐神牀而晝寢。爾語其后曰「汝有所思乎。」答曰「被天皇之敦澤、何有所思。」於是、其大后先子・目弱王、是年七歲、是王當于其時而遊其殿下。爾天皇、不知其少王遊殿下、以詔「吾恒有所思。何者、汝之子目弱王、成人之時、知吾殺其父王者、還爲有邪心乎。」於是、所遊其殿下目弱王、聞取此言、便竊伺天皇之御寢、取其傍大刀、乃打斬其天皇之頸、逃入都夫良意富美之家也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 その後、天皇は神床に座して昼寝をしていました。天皇は后に「何か思うことがあるか」と尋ねました。后は「天皇の厚い恩恵を受けているので、何も思うことはありません」と答えました。その時、后の先子である目弱王(当時七歳、大日下王の息子)が殿下で遊んでいました。天皇はその少王が殿下で遊んでいることを知らず、「私は常に思うことがある。汝の子目弱王が成人した時、私がその父王を殺したことを知ったら、邪心を抱くのではないか」と言いました。これを聞いた目弱王は、天皇が寝ている間に大刀を取り、天皇の首を斬り、都夫良意富美の家に逃げ込みました。

天皇御年、伍拾陸歲。御陵在菅原之伏見岡也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-2/履中天皇~安康天皇」

 天皇は五十六歳で崩御されました。御陵は菅原の伏見岡にあります。

 さて、このあと、安康天皇の崩御後のお話が出てきます。安康天皇の弟の大長谷王子(第21代雄略天皇)は、天皇が殺された知らせを聞き、兄の死を深く悲しみ、激しい怒りを覚えました。彼は兄の仇を討つために行動を起こし、まずは兄弟である黒日子王(くろひこのみこ)白日子王(しろひこのみこ)に協力を求めましたが、彼らが無関心であったため、自らの手で彼らを処罰しました。その後、大長谷王子は、兄を殺した目弱王を匿っていた都夫良意美(つぶらのおおみ)の家を攻撃し、最終的に目弱王を討つことに成功しました。こうした一連の行動について詳しく記載されています。ご関心ある方は、原文などでお楽しみくださいませ。

(6)第21代雄略天皇

 安康天皇に関する古事記の記述は、概要以下のとおり。

  • 大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと、第21代雄略天皇)は、長谷朝倉宮に座して天下を治めました。天皇は大日下王の妹である若日下部王を娶りましたが、子供はできませんでした。また、都夫良意富美の娘である韓比賣を娶り、白髪命(しらかのみこと、第22代清寧天皇)と妹の若帯比賣命の二柱の子供をもうけました。
  • 天皇は百二十四歳で崩御されました。己巳年(つちのとみのとし)の八月九日のことです。御陵は河内の多治比高鸇にあります。(※さすがに、百二十四歳については疑問が残ります。次回の連載で検証します。)

 さて、詳しく見て参りましょう!

大長谷若建命、坐長谷朝倉宮、治天下也。天皇、娶大日下王之妹・若日下部王。无子。又娶都夫良意富美之女・韓比賣、生御子、白髮命、次妹若帶比賣命。二柱。故爲白髮太子之御名代、定白髮部、又定長谷部舍人、又定河瀬舍人也。此時吳人參渡來、其吳人安置於吳原、故號其地謂吳原也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-3/雄略天皇」

 大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと、第21代雄略天皇)は、長谷朝倉宮に座して天下を治めました。天皇は大日下王の妹である若日下部王を娶りましたが、子供はできませんでした。また、都夫良意富美の娘である韓比賣を娶り、白髪命(しらかのみこと、第22代清寧天皇)と妹の若帯比賣命の二柱の子供をもうけました。白髪太子の御名代として白髪部を、長谷部舍人と河瀬舍人を定めました。この時、呉の人々が渡来し、呉原に安置されたため、その地を呉原と呼びました。

 さて、このあと、雄略天皇に関するいろいろな逸話が紹介されます。この中には、天皇が「自分の家を天皇の御舍のように作っている」と言い、人を遣わしてその家を焼かせたといった乱暴なお話など、雄略天皇のお人柄などがよくわかります。ご関心ある方は、原文などでお楽しみくださいませ。

天皇御年、壹佰貳拾肆歲。己巳年八月九日崩也。御陵在河內之多治比高鸇也。

(出典)古事記について・全文検索「古事記 下巻-3/雄略天皇」

 天皇は百二十四歳で崩御されました。己巳年(つちのとみのとし)の八月九日のことです。御陵は河内の多治比高鸇にあります。

 

3.『宋書』と『古事記』の対査

 『宋書』における「倭の五王」の年号に関する記述のまとめは、前回の「倭の五王❷」で紹介しましたが、ここで改めておさらいをいたしましょう。なお、「珍」については、年号不明ですが、倭の五王の一人なので黒字で記載しています。

  • 讃は、421年、南宋朝の初代皇帝の武帝に朝貢を行い、官職を授けられた。
  • 讃は、425年、南宋朝の第3代皇帝の文帝にも朝貢を行った。
  • 珍は、朝貢し、詔により「安東将軍倭国王」に任命された(年代不明)。
  • 済は、443年、「安東将軍倭国王」に任命された。
  • 済は、451年、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号も獲得。
  • 興は、462年、「安東将軍倭国王」の称号を得た。
  • 武は、478年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命された。

 次に、『古事記』における「崩年干支」等に関する記述を整理すると次のとおりです。

  • 仁徳天皇は、丁卯年(ひのとうのとし)の八月十五日、八十三歳で崩御しました。
  • 履中天皇は、壬申年(みずのえさるのとし)の正月三日、六十四歳で崩御しました。
  • 反正天皇は、丁丑年(ひのとうしのとし)の七月、六十歳で崩御されました。
  • 允恭天皇は、甲午年(きのえうまのとし)正月十五日、七十八歳で崩御されました。
  • 安康天皇は、五十六歳で崩御されました。
  • 雄略天皇は、己巳年(つちのとみのとし)の八月九日、百二十四歳で崩御されました。

 まず、『古事記』の記載に基づき、反正天皇が崩御された437年までについて、『宋書』と『古事記』の対査を行ってみます。次の対査表によれば、「讃」は仁徳天皇となります。

『宋書』と『古事記』の対査(410-437年)

 しかしながら、『宋書』においては、「讃」と次の「珍」は兄弟であると明記されています。勿論、「家族関係を書き間違えた」と言ってしまえばそれまでですが、次回の倭の五王❹において、再度、『宋書』の記述を詳しく吟味してみたいと思います。お楽しみに。

ゴーヤン
ゴーヤン

皆さま、「倭の五王❸」はいかがでしたか。『日本書紀』の記録に基づく宮内庁の「天皇系図」に記された古代歴代天皇の在位期間を用いると『宋書』に登場する年号と全く一致しないため、今回、『古事記』の崩御干支に着目し、『宋書』と『古事記』の対査を行いました。「倭の五王」がどの天皇に対応しているのかについては、まだまだ詳細な検証が必要であることがわかりました。
次回の「倭の五王❹」においては、様々な観点から「倭の五王」に関する検証をさらに進めて参ります。お楽しみに!

 

参考文献

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