短編歴史物エッセイ

倭の五王❷

2024年11月11日

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倭の五王❷~『宋書』倭国伝の解読による検証!~
倭の五王❷~『宋書』倭国伝の解読による検証!~

「倭の五王」のうち、第19代允恭天皇が「済」、第20代安康天皇が「興」、第21代雄略天皇が「武」である。中国古代史書『宋書』の中に「夷蛮伝」があり、「倭国伝」はその一部。主な内容は、宋朝に対する倭国王の朝貢と任官。倭の五王が朝鮮半島の覇権を視野に入れ、頻繁に宋朝に朝貢し、皇帝から任官されている様子が記載されている。

倭の五王❶~長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫る!~
倭の五王❶~長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫る!~

『宋書』に登場する倭国の5代の王は、「讃」、「珍」、「済」、「興」、「武」という名前で登場します。日本古代の歴代天皇を指しますが、具体的に「どなたか?」は所説あります。本連載では、「宋書」の原文を忠実に読み、歴史的背景を整理しながら、倭の五王の謎に迫り、様々な観点から古代日本の年号が西暦何年なのかを解明して参ります。

邪馬台国の場所を探る❺(最終回)
邪馬台国の場所を探る❺(最終回)

「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、皆さま、大変お待たせしました。女王卑弥呼がいた邪馬台国、その女王国に従う国々を監察する伊都國、そして倭国の規模、さらに、女王国の南方に位置し、敵対する狗奴國の位置関係を作図することで明らかにいたします。

邪馬台国の場所を探る❹
邪馬台国の場所を探る❹

「魏志倭人伝」に詳細に記載されている倭人の生活習慣や倭国の自然、そして諸国を観察する様子に触れた後、いよいよ「卑弥呼」が登場します。親魏倭王「卑彌呼」への「みことのり」、下賜された品々とそれらの意義、正始元年以降の出来事を経て、正始8年(西暦247年)卑弥呼が死亡します。そして、最後は彼女の死後の様子が描かれています。

邪馬台国の場所を探る❸
邪馬台国の場所を探る❸

「魏志倭人伝」に書かれた内容を吟味するには、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえる必要があります。ある一節の中で「邪馬台国」の場所を書き表していたのです。これを読み解くには、きちんと中国古代の歴史故事を踏まえつつ、後漢の時代には確立していた「周碑算経」の中に登場する「一寸千里法」を使えば解決できるものだったのです。

邪馬台国の場所を探る❷
邪馬台国の場所を探る❷

「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。」(女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。)、原文から謎を解く。作者の意図を読むことが肝要。「すぐには行くことができない遠く離れたところにある国々というのは女王国に属する国々ではない。」

邪馬台国の場所を探る❶
邪馬台国の場所を探る❶

「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫ります。後漢の時代にすでに完成していた「周碑算経」という朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書の原文が示す方法「1寸千里法」等を用い、魏志倭人伝の距離・方位を正確に検証し、邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチ!

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~『宋書』倭国伝の解読による検証!~

1.宋書倭国伝

 皆さま、こんにちは。神部龍章です。短編歴史物エッセイの(新連載)「倭の五王❶~長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫る!~」はいかがでしたでしょうか?今回の「倭の五王❷」では、『宋書』の倭国伝について、その解明を行い、わかりやすく説明いたします。古代中国の歴史文献の解読をお楽しみくださいませ。

 さて、ここで改めて「宋書倭国伝」について簡単に説明させていただきます。中国の古代史書『宋書』の中に「夷蛮伝」と呼ばれる記述がありますが、「倭国伝」はその一部です。この夷蛮伝は、他の中国史書の外国伝と異なり、各国の風土、産物、制度、歴史といったことに関する記述はほとんどなく、記載されているのは、宋朝と諸国の交渉記事に限定されており、倭の五王が宋朝に朝貢を行い、宋朝から任官されるといった記事が主として記載されています。したがって、倭国の誰がいつ(西暦何年に)宋朝に対してどのような行動をとったのかという観点が明確に記録されていますので、年号を確認するには最適です。

 なお、『宋書』の原文を直接ご覧になりたい方は、以下のサイトで閲覧することができますので、お試しください。

 宮内庁の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」において、『宋書』の画像資料を閲覧することができます。(※「出版物及び映像への利用(写真掲載・翻刻など)については、図書寮文庫出納係への申請が必要」とのことなので、リンク先より直接サイトをご覧ください。)

 画像資料のp33/63をご覧ください。右から6行目の「倭國在高驪東南大海中丗修貢職」から倭人伝の内容が始まり、p35/63の右行目までに記載されています。 

2.倭の五王に関する記述

(1)「讃」

倭國在高驪東南大海中丗修貢職

貢職髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授

太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物

(出典)ウィキソース「宋書倭国伝」

 倭国は、高句麗の東南の大海の中にあり、長い間貢ぎ物を送ってきました。永初2年(421年)、高祖(南宋朝の武帝(劉裕))は詔を発し、「倭国の讃は、遠くから誠意をもって貢ぎ物を送ってきたので、官職を授けるべきである。」と言いました。太祖(南宋朝の文帝)の時代の元嘉2年(425年)、讃は、再び司馬の曹達を派遣して表を奉り、方物を献上しました。

 永初(えいしょ)」は、中国の南北朝時代、南朝宋の武帝(劉裕)の治世に使われた元号。西暦420-422年(以下、「西暦」を省略)。永初2年は421年。

 南朝宋の武帝(劉裕)」は、南朝宋の初代皇帝。在位420-422年。

 倭の五王のうち、最初の「讃」が登場します。「讃」は、421年、南朝宋の初代皇帝の武帝に朝貢を行い、官職が授けられました。

 朝貢」とは、中国皇帝の配下である諸侯や外国の使いが来朝して、朝廷に貢物を差し出すことです。これに対して、皇帝は、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とします。これを「冊封」と呼びます。「貢職髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」は、倭国の「讃」による朝貢と中国皇帝(南宋朝・初代皇帝武帝)による冊封について記載されています。

 讃は、南朝宋の文帝のときに、再び朝貢し、表を奉り、方物を献上しました。「奉表」とは、主に古代中国や日本の歴史において、臣下が皇帝や上位の権力者に対して、表(手紙や文書)を奉る(捧げる)ことを指します。「南朝宋の文帝」は、南朝宋の第3代皇帝。在位424-453年。

 元嘉(げんか)」は、南朝宋の文帝時代の年号。424-453年。元嘉2年は425年。

 讃は、425年、南朝宋の第3代皇帝の文帝にも朝貢しました。

  • 讃は、421年、南朝宋の初代皇帝の武帝に朝貢を行い、官職を授けられた。
  • 讃は、425年、南朝宋の第3代皇帝の文帝にも朝貢を行った。

(2)「珍」

讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽 

(出典)ウィキソース「宋書倭国伝」

 讃が死ぬと、弟の珍が立ち、使者を派遣して貢ぎ物を献上し、自らを「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と称しました。表を奉って官職の除正を求め、詔により安東将軍倭国王に除正されました。珍は、また、倭、隋など十三人の平西征虜冠軍輔国将軍の号の除正を求め、詔によりすべて許されました。

 讃が亡くなると、弟の「」が立ち、南朝宋に朝貢し、自ら次の役職や立場にあると称しました。こうした称号は、倭国の王が中国の皇帝に対して忠誠を誓い、その見返りとして軍事的な権威を認めてもらうためのものであり、また、特に、朝鮮半島における影響力を強化し、国内外での地位を高めることを目的としていました。

  • 使持節都督」: 皇帝から特別な権限を与えられた使者で、軍事や行政の監督を行う役職。
  • 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事」: 倭国(日本)を含む朝鮮半島の複数の国々(百済、新羅、任那、秦韓、慕韓)に対する軍事的な指揮権を持つことを示しています。
  • 安東大将軍」:東方の安定を図るための高位の将軍職。
  • 倭国王」:倭国の王としての地位。

 そして、珍王は、南朝宋皇帝に表を奉って官職の除正を求めたところ、詔により「安東将軍倭国王」に任命されました。「除正」とは、中国王朝が、近隣諸国の君主・臣下の称号を認定することを指します。

  • 珍は、讃の弟。讃が亡くなると、次に倭国王となった。
  • 珍は、朝貢し、詔により「安東将軍倭国王」に任命された(年代不明)。

(3)「済」

二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻 

(出典)ウィキソース「宋書倭国伝」

 元嘉20年(443年)、倭国王の済は、使者を派遣して貢ぎ物を奉り、再び「安東将軍倭国王」に任命されました。元嘉28年(451年)には、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号が加えられ、以前のまま安東将軍倭国王としての地位も保持されました。また、彼が推薦した23人の軍郡の官職も認められました。済が死ぬと、世子の興が使者を派遣して貢ぎ物を奉りました。

 倭国王の済が登場します。上述の珍との関係は記述がないので不明です。元嘉20年(443年)、済は、朝貢し、再び「安東将軍倭国王」に任命されます。また、元嘉28年(451年)には、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号が加えられ、また、安東将軍倭国王としての地位も保持されています。済が死ぬと、世子(世継ぎ)の興が朝貢します。

  • 済は、443年、「安東将軍倭国王」に任命された。
  • 済は、451年、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号も獲得。
  • 済の死後、世継ぎの興が朝貢した。

(4)「興」

丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王

(出典)ウィキソース「宋書倭国伝」

 世祖(南朝宋の文帝)は、大明6年(462年)、詔を発し、「倭王の世継ぎである興は、代々忠誠を尽くし、外海の藩としての役割を果たし、境内を安定させ、貢ぎ物を欠かさずに送ってきた。新たにその地位を継いだ者には爵位を授け、安東将軍倭国王とするべきである。」と言いました。興が死ぬと、弟の武が立ち、自らを使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称しました。

 倭王の世継ぎ・興は、462年に「安東将軍倭国王」の称号を得ます。興が死ぬと、弟の武が立ちます。

 「大明(だいめい)」は、南朝宋の孝武帝時代の元号。457年 - 464年。大明6年は462年。

  • 興は済の世継ぎ。
  • 興は、462年に「安東将軍倭国王」の称号を得た。
  • 興が死ぬと、弟の武が立つ。

(5)「武」

順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

(出典)ウィキソース「宋書倭国伝」

 南朝宋の順帝の昇明2年(478年)、使者を派遣して表を奉り、「我が国は遠く離れた地にあり、外海の藩としての役割を果たしてきました。先祖の禰は自ら甲冑を身にまとい、山川を越えて戦い、安らぐことなく、東は毛人の55国を征服し、西は夷の66国を服従させ、海を渡って北は95国を平定しました。王道は広がり、領土は遠くまで及び、代々朝貢を欠かさず行ってきました。臣は愚かではありますが、先祖の志を継ぎ、統治する者を率いて天の道を崇め、遠く百済に至るまで従わせました。しかし、句驪(高句麗)は無道であり、我が国を侵略し、辺境の民を虐げ続けています。そのため、進路が通じたり通じなかったりしています。亡き父の済はこの敵に怒り、天の道を塞ぐことを憤り、百万の兵を率いて義の声を上げ、大規模な遠征を計画しましたが、父兄を失い、その功を成し遂げることができませんでした。臣は喪に服し、兵を動かさずにいましたが、今こそ甲冑を整え、兵を治め、父兄の志を継ぎたいと考えています。義士たちは文武の功を示し、白刃の前に立つことも厭いません。もし帝の徳によってこの強敵を打ち破り、方難を平定することができれば、前功を無にすることはありません。開府の義を三司と同じくし、他の者にも忠節を勧めるために官職を授けてください。」と述べました。詔により、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命しました。

 最後に、倭国王の武が登場します。南朝宋の順帝に宛てた書簡の中に、「百万の兵を率いて義の声を上げ、大規模な遠征を計画しましたが、父兄を失い、その功を成し遂げることができませんでした。臣は喪に服し、兵を動かさずにいましたが、今こそ甲冑を整え、兵を治め、父兄の志を継ぎたいと考えています。」と書かれており、上述の内容と合わせて考えると、済が武の父、興が武の兄であることが明らかです。武は、478年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命されました。

 順帝」は、南朝宋の第8代皇帝。南朝宋の最後の皇帝。在位477年-479年。

 昇明(しょうめい)」は、南朝宋の順帝時代の年号。477年-479年。昇明2年は478年。

  • 済が武王の父、興王が武王の兄。
  • 武は、478年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命された。

 

3.宮内庁天皇系図の年号との比較

 上述の『宋書』に登場する年号を整理すると次のとおり。

  • 讃は、421年、南朝宋の初代皇帝の武帝に朝貢を行い、官職を授けられた。
  • 讃は、425年、南朝宋の第3代皇帝の文帝にも朝貢を行った。
  • 珍は、朝貢し、詔により「安東将軍倭国王」に任命された(年代不明)。
  • 済は、443年、「安東将軍倭国王」に任命された。
  • 済は、451年、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号も獲得。
  • 興は、462年、「安東将軍倭国王」の称号を得た。
  • 武は、478年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命された。

 宮内庁ホームページ「天皇系図」に基づく、歴代天皇の在位期間については、倭の五王❶でご紹介しましたが、これらのデータを用いて、『宋書』に登場する上述の年号と比較すると、次のように整理されます。

天皇名称在位期間(西暦)在位年数
第17代履中天皇(仁徳天皇の子)400-4056年
第18代反正天皇(仁徳天皇の子、履中天皇の弟)406-4105年
第19代允恭天皇(仁徳天皇の子、反正天皇の弟)412-45342年
第20代安康天皇(允恭天皇の子)453-4564年
第21代雄略天皇(允恭天皇の子、安康天皇の弟)456-47924年
第22代清寧天皇(雄略天皇の子)480-4845年
第23代顕宗天皇(履中天皇の孫、磐坂市辺押磐皇子の子)485-4873年
第24代仁賢天皇(履中天皇の孫、磐坂市辺押磐皇子の子、顕宗天皇の兄)488-49811年
(表)第17代履中天皇から第24代仁賢天皇までの在位期間と在位年数(宮内庁天皇系図に基づく)

 いかがですか?『宋書』の倭の五王の記述と全くフィットしません。やはり、古代歴代天皇の在位期間を見直す必要がありそうです。

 

4.宮内庁天皇系図に基づく倭国王「済」「興」「武」の比定

 宮内庁ホームページ「天皇系図」に基づき、古代歴代天皇の関係を調べると、父➡兄➡弟の順で即位した天皇は、第19代允恭天皇、第20代安康天皇、第21代雄略天皇だけが条件に該当します。したがって、第19代允恭天皇が「済」、第20代安康天皇が「興」、第21代雄略天皇が「武」であると考えられます。実際、この比定については、諸説ある中、支持されている考え方でもあります(以下、世界大百科事典「倭の五王」の記述参照)。

  • 第19代允恭天皇が「済」、第20代安康天皇が「興」、第21代雄略天皇が「武」である。
倭国王天皇名称在位期間(西暦)在位年数
第19代「済」允恭天皇(仁徳天皇の子、反正天皇の弟)412-45342年
第20代「興」安康天皇(允恭天皇の子)453-4564年
第21代「武」雄略天皇(允恭天皇の子、安康天皇の弟)456-47924年
(表)第19代允恭天皇から第21代雄略天皇までの在位期間と在位年数(宮内庁天皇系図に基づく)

世界大百科事典「倭の五王」【一部抜粋】

 倭の五王の対宋外交の目的は,必ずしも明らかではないが,ほぼ一貫して認められることは宋に対する任官要請である。倭国王はみずからを宋の皇帝の忠実な藩臣と位置づけることで宋の歓心を買い,百済を中心とする南朝鮮の軍事的支配権を認めてもらおうとした。しかし,倭国王の要請は,宋側の国際的関心・認識と一致しなかったために,結局,宋の認めるところとならなかった。宋を中心とする国際社会にあっては,倭国王よりも百済王のほうが国際的地位が高く,高句麗王はさらに高かった。宋の最大の関心事は北魏との対決であり,高句麗は北魏包囲網の最重要国である。高句麗との対決を主張する倭国王の要請がそのままでは認められなかったのも当然である。倭国王は宋に依存して南朝鮮の軍事的支配権を認めてもらい,高句麗と対決するという道を捨てざるをえなかった。こうして倭国王は中国南朝との交渉を絶った。

 なお,倭の五王を,讃は仁徳,履中または応神,珍は反正または仁徳,済は允恭,興は安康,武は雄略などと諸天皇と結び付けるさまざまな試みがなされているが,年次・系譜ともに問題が多く,慎重な検討が必要である。
[坂元 義種]

(出典)世界大百科事典「倭の五王」
ゴーヤン
ゴーヤン

皆さま、「倭の五王❷」はいかがでしたか。この時代の歴代の天皇は、朝鮮半島の覇権を巡り、南朝宋の皇帝に頻繁に朝貢し、権威を高めるための称号を得ていた様子がよくわかりますね。本文中で、検証したとおり、『宋書』に記録された年号と宮内庁天皇系図に記載された古代歴代天皇の在位年数・期間とは、まったく一致しないので、やはり『魏志倭人伝』の注釈に書かれていた「春秋二倍説」で、再考する必要があることもわかりました。
次回の「倭の五王❸」においては、古代歴代天皇のうち、「倭の五王はどなたか?」について、さらに検証を進めて参ります。お楽しみに!

 

参考文献



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