~邪馬台国の場所をついに特定!~
皆さま、こんにちは。神部龍章です。「邪馬台国の場所を探る」の第5回目です。本シリーズにおいては、短編歴史物エッセイ作家と教育コンサルタントの観点から、「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、今回で本連載もいよいよ最終回となりました。
前回の第4回では、倭人の生活習慣・倭国の自然と卑弥呼登場と題して、とりあえずは「魏志倭人伝」の原文を最後まで読み終えました。また、前々回の第3回では、邪馬台国の位置は「九州の鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけての箇所に存在した」と結論付けたところで終わっています。そこで、今回は、最終的な検証を行い、いよいよ邪馬台国の場所を具体的に特定して参りたいと思います。邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチを存分にお楽しみください!
1.伊都国の場所を具体的に特定
(1)伊都国に関する記述のレビュー(前半)
➀壱岐を経て九州北部に上陸
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(陳壽)底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店(1951(昭和26)年11月5日第1刷発行、1983(昭和58)年9月10日第42刷発行)、底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本
東南に陸地を進むと五百里で伊都國に至ります。長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚です。一千世帯以上あり、倭国の世には王がおり、皆、女王国に属しています。郡使の往来では常にここに駐在します。
- 伊都國は、世帯数は一千世帯以上とされており、他の国と比べるとそれほど世帯数が多くない。
- 伊都國には、長官のほか、副官が2名おり、女王国に属し、組織が整えられている。
- 伊都國は、帯方郡などの「郡使」が往来する際に必ず駐留するところ(外交上の拠点)。
➁伊都國による諸国の監察
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
女王国の北には、特別に一大率の官を置き、諸国を監察させており、諸国はこれを畏れています。常に伊都国で治めています。あたかも中国でいうところの刺史(長官)のようです。倭王が魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したり、帯方郡の使者が倭国に遣わされた時には、いつも港に出向いて荷物の数目を調べ、送られる文書や賜り物が女王のもとに届いたときに、間違いがないように点検します。
- 伊都國には特別に一大率の官を置き、諸国を監察させ、諸国はこれを畏れている。伊都國は、中国でいうところの刺史(地方長官)のようなもの(諸国の監察拠点)。
- 伊都國は、倭王が魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したり、帯方郡の使者が倭国に遣わされた時には、いつも港に出向いて荷物の数目を調べ、送られる文書や賜り物が女王のもとに届いたときに、間違いがないように点検するところ(港が隣接し、税関のような組織が存在)。
➂南に船で20日にて投馬國に至る
南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
南へ船で二十日にて「投馬國」に至ります。長官は「彌彌」、副官は「彌彌那利」と言います。五万世帯以上あります。
ここで考えるべき重要な事項は、「どこから出発して投馬国に向けて出かけたのか?」というところです。仮に、選択肢1【伊都國】が投馬國に向けた出発地だとすると、港が整備されている海辺の町ということが大前提になります。
出発国の候補とその理由 | |
選択肢1 | 【伊都國】 ◎邪馬台国の場所を探る❷において説明したとおり、伊都國から奴國までは東南へ歩いて百里(約7.6km)、そして不彌國へは東へ歩いて百里とそれぞれ極めて近距離であるため、日帰りが可能な距離。また、伊都國は、帯方郡などの「郡使」が往来する際に必ず駐留するところという説明にも合致する。 ◎さらに、伊都國は、倭王が魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したり、帯方郡の使者が倭国に遣わされた時には、いつも港に出向いて荷物の数目を調べ、送られる文書や賜り物が女王のもとに届いたときに、間違いがないように点検するところ(港が隣接し、税関のような組織が存在)であるとの説明にも合致する。 ◎つまり、ここが次の行程を進めるうえでの拠点であったと考えると、伊都國は、港が整備されている海辺の町ということが大前提になる。 |
選択肢2 | 【不彌國】 ◎行程は、一行が進んだ順番に記載されていると考えると、まず、伊都國から東南へ歩いて百里で奴國、次にそこから東へ歩いて百里で不彌國となるので、ここから船で南に向けて出かけたとする考え方。 ◎一行が進んだ順番に記載されているとは限らないこと、また、不彌國について詳しい記載がないことから、上述の選択肢1をしのぐ考え方であるとは言い難い。 |
選択肢3 | 【奴國】 ◎可能性としては奴國も考えられるが、これを支持する記述は特には見当たらない。 |
(2)縄文海進
さて、ここで、当時の有明海の海岸線について興味深い記事が多数掲載されていますので、概要を紹介させていただきます。縄文時代前期(約7,000年前~5,500年前)、地球全体の温暖化により、氷河が溶け、海水面が上昇し、「縄文海進」と呼ばれる海面上昇がありました。弥生時代においても、この影響を受け、有明海は、吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2~3キロメートルほどの距離にあったと推定されています。この説は、吉野ヶ里遺跡が当時の海岸線に近い場所に位置していた可能性を示唆しており、海上交通や交易が盛んだったことを裏付けるものです。吉野ヶ里遺跡は弥生時代の大規模な環濠集落であり、交易や防衛のために戦略的に重要な位置にあったと考えられます。
佐賀県サガミュージアムズ・ホームページに「縄文海進ピーク時の有明海と東名遺跡(画像提供:佐賀市教育委員会)」が掲載されていますので、参考までに以下の図をご覧ください。吉野ヶ里遺跡場所については、筆者が追記しました。
(3)伊都国に関する記述のレビュー(後半)
又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
「又渡一海千餘里、至末盧國、」
また海を一千里渡ると、末盧國に至ります。
「末盧國」については、また海を一千里渡ると至ると言っているだけなので、その方角などもよくわかりません。そこで、邪馬台国の場所を探る❷においては、右図のとおり、いくつも「末盧國」の候補地があることを説明しました。
ただし、上述のとおり、「伊都國は、そこから東南に五百里(約38km)進んで、かつ、南に向けて海路が広がる港に近い場所」という条件を満たすことが必要なことから、条件に合致する場所は、自ずと限定されます。
(4)伊都國の場所の特定
(図7) 壱岐から一千里の場所が示す「末盧國」の候補地のうち、上述の条件に合致しそうなところは、唐津市、伊万里市、松浦市、平戸市又は佐世保市の5つです。以下のとおり、それぞれの候補地から五百里(約38km)進むと、松浦市以外の4つの候補であれば、それぞれの伊都國の候補地から南に向けて投馬國を目指すことが可能です。
ただし、伊都國のあったところには、相当の遺跡があるはずです。まだ、発掘されていない可能性も当然ありますが、現在までにおいて、魏志倭人伝における伊都國に関する表記に合致するのは、佐賀市周辺(吉野ヶ里遺跡当たり)ではないかと考えられます。
「末盧國」の候補地 | 想定される「伊都國」の場所 (「末盧國」から東南に約38kmの地点) | 港の有無 |
唐津市 | 佐賀市周辺(吉野ヶ里遺跡当たり) | 有明海 |
伊万里市 | 鹿島市周辺 | 有明海 |
松浦市 | 武雄市周辺 | なし |
平戸市 | 佐世保市周辺 | 佐世保湾 |
佐世保市 | 長崎県東彼杵町周辺 | 大村湾 |
- 神部龍章の部屋においては、結論として、「魏志倭人伝における伊都國に関する表記に合致するのは、佐賀市周辺(吉野ヶ里遺跡当たり)」と考えます。
2.邪馬台国の場所を具体的に特定
(1)邪馬台国に関する記述のレビュー(前半)
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮 、可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
南へ船で十日、歩いて一か月にて「邪馬台国」に至ります。長官は「伊支馬」、副官は「彌馬升」、「彌馬獲支」、「奴佳」と言います。七万世帯以上あります。
自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。
「女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができる」と言っていますので、ここからわかることは、作者が把握している女王の支配するエリアでみると、女王国がその南端にあるということです。
- 「作者が把握している女王の支配するエリア」が女王国(つまり「倭国」)ではないか
- 「邪馬壹國」は「倭国」の南端にあるのではないか
(2)邪馬台国に関する記述のレビュー(後半)
邪馬台国の場所を探る❸においては、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえつつ、「魏志倭人伝」に書かれた内容を吟味するという新アプローチにより、邪馬台国の場所の特定を試みました。
最初に「計其道里、當在會稽東冶之東。」が示す「長江下流の流域からその南(現在の蘇州市)あたりの東」という記述に基づく作図のレビューです。これにより、九州の鹿児島県や宮崎県南部あたりが該当することがわかりました。
次に「自郡至女王國萬二千餘里」については、「帯方郡から女王国は一万二千里余りです」と言っていますので、これに基づく作図のレビューです。帯方郡から一万二千里の距離にある場所と会稽東冶之東(正しくは「東治」ですが、青空文庫「魏志倭人伝」の表記に合わせています。)に当たる箇所が九州の鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけての箇所で見事に交わっています((図9)の赤丸が示す場所)。
- 「邪馬台国は、九州の鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけての箇所に存在した」と結論付けることができます。
(3)邪馬台国の位置を探る上での重要な情報
邪馬台国の場所を探る❹において邪馬台国の位置を探る上での重要な情報がいくつか登場します。
➀女王国の東側
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國・黒齒國、復在其東南、船行一年可至。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
女王国から東へ海を渡って一千余里行くと、また別の国がありますが、皆、倭人と同じ人種です。さらにその南に「侏儒國」があり、人の背丈は三、四尺で、女王国から四千余里のところです。そのさらに東南に「裸国」と「黒歯国」があり、船で1年航海すると着きます。
ここでの記述は、女王国から東へ海を渡って約一千里行くと、また別の国があると言っていますので、少なくとも、女王国から東の方角へ海が開けていることになります。(図9)邪馬台国の位置で見ると、宮崎のあたり、あるいは薩摩半島のあたりであれば、東側が海に面しています。
ところで、一行は、実際に東へ海を渡って別の国に行ったのでしょうか?記述内容を見ると、倭人から聞いた話を書いているようにも思えます。なぜならば、前回の邪馬台国の場所を探る❹において紹介した文章を思い出してください。いろいろなことがかなり詳細に記述されています。一方、ここでの表現は、さらっと大まかに書かれている印象が強いため、魏志倭人伝の文章全体を通して考察すると、「伝聞に基づく記述である」と結論付けられると考えます。したがって、これより先は、正確な記述かどうかがわからないため、細かく検証すると、全体像が見えにくくなる恐れもあります。
- 「女王国から東へ海を渡って一千余里行くと、また別の国がある」との記述から、女王国から東の方角へ海が開けている。
- このフレーズの後半部分は、魏志倭人伝の文章全体を通して考察すると、さらっと大まかに書かれている印象が強いため、実際には行かなかったと考えられることから、「伝聞に基づく記述である」と結論付けられる。
➁倭国の大きさ
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)
倭の地について尋ねたところ、大海中の孤立した島嶼の上にあり、離れたり連なったりしながら分布し、周囲を巡れば五千余里ほどである。
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」と書かれているとおり、倭の地について尋ねて聞いた話である訳ですが、私が考えるには、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國・黒齒國、復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」のフレーズ全体が倭人に尋ね、倭人から聞いた話であると考えます。ただし、ここで重要な点は、➀筆者が自分で足を運ばず、本当に伝聞を書いただけの記載と、そうではなく、➁実際には足を運んで自分自身も見聞したうえで書いたと考えられる記載とは、それぞれわけて考える必要があります。
つまり、上述のとおり、女王国から東に海路で行く話については、魏志倭人伝の文章全体を通して考察すると、さらっと大まかに書かれている印象が強いため、実際には行かなかったと考えられることから、「単に倭人から聞いた話」に過ぎないと思料されますが、一方で、伊都國から女王国までの行程については、実際に水路と陸路で何日もかけて入念に見聞しているため、「大海中の孤立した島嶼の上にあり、離れたり連なったりしながら分布し、周囲を巡れば五千余里ほどである」というところは、同じく倭人から聞いた話ではありますが、自分自身も、女王国へ進みながら、ある程度確かめていると言えるところが大きく違います。
まず、「大海中の孤立した島嶼の上にあり、離れたり連なったりしながら分布」について考察してみましょう。倭国が九州にあったと考えると、長崎から天草にかけた地形などは、確かに、ここでの表現どおりだと思います。しかしながら、そもそも日本には、こうした地形が多々ありますので、単純にこの表現から、特定の場所を決定することは困難だと考えます。実際、「畿内説」を唱えている方々におかれては、「瀬戸内海のことだ」などの主張も見受けられます。
次に、「周囲を巡れば五千余里ほどである」について考察してみましょう。「五千余里」という距離は、直線距離であれば、それなりの距離感もありますが、周囲を巡ると言っていますので、どのくらいの規模なのかは、地図上で作図してみると簡単に距離感をつかむことができます。「五千余里」は、400kmくらいだと考えると、北九州から南九州にかけての一部のエリアくらいの規模感です。「畿内説」を唱えておられる方々は、ここはスルーされているようですが、伊都國が女王国に従う国々の監察をしているとの記述を考えると、倭国であることに間違いないので、そうすると伊都國と邪馬壹國との距離感が極めて重要になってきます。
- 伊都國から女王国までの行程については、実際に水路と陸路で何日もかけて入念に見聞しているため、「大海中の孤立した島嶼の上にあり、離れたり連なったりしながら分布し、周囲を巡れば五千余里ほどである」というところは、倭人から聞いた話ではあるが、自分自身も、女王国へ進みながら、ある程度確かめていると言える。
- 「大海中の孤立した島嶼の上にあり、離れたり連なったりしながら分布」については、倭国が九州にあったと考えると、長崎から天草にかけた地形などは、確かに、ここでの表現どおり。ただし、そもそも日本には、こうした地形が多々あるので、単純にこの表現から、特定の場所を決定することは困難である。
- 「五千余里」は、400kmくらいだと考えると、北九州から南九州にかけての一部のエリアくらいの規模感。伊都國が女王国に従う国々の監察をしているとの記述を考えると、倭国であることに間違いないので、そうすると伊都國と邪馬壹國との距離感が極めて重要。
(4)邪馬台国の場所を特定
本シリーズにおいては、短編歴史物エッセイ作家と教育コンサルタントの観点から、「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、皆さま、大変お待たせしました。これまで検証してきた結果を総括したうえで、女王卑弥呼がいた邪馬台国、さらにその女王国に従う国々を監察する伊都國、そして倭国の規模、さらには、女王国の南方に位置し、女王国と敵対する狗奴國の位置関係を作図することで明らかにいたします。
作図のポイントを改めて以下のとおり示します。すべて、本稿の中で、「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫ってきた重要な結果です。
➀伊都國の位置
- 壱岐からおよそ一千里の場所が示す「末盧國」の候補地のうち、それぞれの候補地から陸路で東南の方向に五百里(約38km)進むと「伊都國」に至りますが、そこは、港が隣接し、税関のような組織が存在し、また、そこから南に向けて海路で投馬國を目指すことができる場所でなければなりません。地形の条件が合致するところがいくつかあります。
- 「伊都國」には、➀長官のほか副官が2名おり、女王国に属し組織が整えられていること、➁帯方郡などの「郡使」が往来する際に必ず駐留するところで、いわゆる「外交上の拠点」であったこと、➂特別に一大率の官を置き、諸国を監察させ、諸国はこれを畏れており、中国でいうところの刺史(地方長官)「諸国の監察拠点」であったことを考慮すると、現在にも何らかの遺跡が残っているものと考えられます。
- 「末盧國」の候補地から陸路で東南の方向に五百里進んで、遺跡のあるところとしては、佐賀市周辺(吉野ヶ里遺跡当たり)が有力です。しかしながら、南方には、有明海がありますが、少し距離がありますので、港が隣接しているとは言い難いという問題が残ります。
- 縄文時代前期、地球全体の温暖化により、氷河が溶け、海水面が上昇し、「縄文海進」と呼ばれる海面上昇がありました。弥生時代においても、この影響を受け、有明海は、吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2~3キロメートルほどの距離にあったと推定されています。この説は、吉野ヶ里遺跡が当時の海岸線に近い場所に位置していた可能性を示唆しており、海上交通や交易が盛んだったことを裏付けるものです。吉野ヶ里遺跡は弥生時代の大規模な環濠集落であり、交易や防衛のために戦略的に重要な位置にあったと考えられます。
- 以上のことから、「伊都國」は、「吉野ヶ里遺跡」のあたりに存在したものと結論付けることができます。
➁邪馬壹國の位置
- 「女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。」との記述から、➀「作者が把握している女王の支配するエリア」が女王国(つまり「倭国」)ではないかということ、➁「邪馬壹國」は「倭国」の南端にあるのではないかということがわかります。
- 邪馬台国の場所を探る❸においては、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえつつ、「魏志倭人伝」に書かれた内容を吟味するという新アプローチにより、邪馬台国の場所の特定を試みました。「計其道里、當在會稽東冶之東。」が示す「長江下流の流域からその南(現在の蘇州市)あたりの東」は日本のどのあたりを指しているのかという検証の結果、九州の鹿児島県や宮崎県南部あたりが該当することがわかりました。
- 次に「自郡至女王國萬二千餘里」についてですが、「帯方郡から女王国は一万二千里余りです」と言っていますので、これについて検証した結果、上述の「計其道里、當在會稽東冶之東。」が示す場所のうち、九州の鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけての箇所で見事に交わっています。
- 「邪馬台国は、九州の鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけての箇所に存在した」と結論付けることができます。
- 宮崎県の南部に「西都原古墳群」という大規模な遺跡があります。残念ながら、時代的には3世紀後半以降の遺跡だとされていますので、卑弥呼の時代より、ほんの少し後の時代になります。しかしながら、「邪馬台国には、七万世帯以上あります。」という記述を考慮すると、3世紀後半以降に、急に人々が集まったと考えるのは不自然なので、有力な候補地であることは間違いありません。今後の発掘とそれに伴う新発見を大いに期待したいと思います。
- 「女王国から東へ海を渡って一千余里行くと、また別の国がある」との記述から、女王国から東の方角へ海が開けていたと考えられます。鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけての箇所であれば、東に向けて海が広がっていますので条件に合致しますが、東の方向に海路を進んで一千里行っても別の国には至りませんので、そのあとの記述を含め課題が残ります。
- 神部龍章の部屋においては、このフレーズの後半部分は、さらっと大まかに書かれている印象が強いため、魏志倭人伝の文章全体を通して考察すると、「伝聞に基づく記述である」と結論付けました。
➂倭国の様子と大きさ
- 「大海中の孤立した島嶼の上にあり、離れたり連なったりしながら分布」については、倭国が九州にあったと考えると、長崎から天草にかけた地形などは、確かに、ここでの表現どおりです。
- 「五千余里」は、400kmくらいだと考えると、北九州から南九州にかけての一部のエリアくらいの規模感になります。伊都國が女王国に従う国々の監察をしているとの記述を考えると、倭国であることに間違いないので、そうすると伊都國と邪馬壹國との距離感が極めて重要です。
- 邪馬台国の場所を探る❸において、「次に「斯馬國」があり、・・・、そして次に「奴國」がある。これが女王の境界が尽きる所です。」という表現の説明が出てきます。また、「奴國」は「伊都國」から東南に百里のところにあることがわかっています。したがって、倭国のエリアについて作図するときには、「奴國」が国の境界になる点を考慮する必要があります。
④狗奴國の位置
- 「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。」において、女王国の南に、女王国には属さない男性の王がいる「狗奴國」があると記述されています。
- 「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。」において、倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は、元より不和で、互いに攻擊している状態を説明したと記述されています。
- 重要なことは、倭国というのは、日本全国ではなく、近隣に対立する国がいる日本の一部の国であるということです。
- 日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊襲」(以下、引用文参照)によると、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によると、女王卑弥呼(ひみこ)と対立した狗奴(くな)国があったことが知られるが、この狗奴国をクマソとする説もあると書かれています。クマソは、ヤマトタケル(日本武尊・倭建命)による討伐物語で知られているように、反大和政権的存在で、南部九州の未服属集団の総称として知られています。つまり、一説によれば、「狗奴國」から「熊襲(クマソ)」への流れがあり、その拠点は南九州とされています。
日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊襲」の意味・わかりやすい解説
熊襲
くまそ古代の南部九州の地域名、あるいはその地域の居住者の族名。熊曽、球磨贈於などとも書く。『古事記』では熊曽と書き、大八島(洲)(おおやしま)国生成の条で筑紫(つくし)島(九州)を筑紫国、豊(とよ)国、肥(ひ)国、熊曽国など四つに区分しているところから、日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の地域、すなわち現在のほぼ宮崎・鹿児島両県の地域をさしたものとみられる。また『日本書紀』では熊襲と書き、景行(けいこう)、仲哀(ちゅうあい)、神功(じんぐう)などの各紀に、討伐を受けた族名としてみえる。さらに西海道(九州)の各「風土記(ふどき)」などには球磨贈於などとも表記されている。
この球磨贈於の表記からすると、クマソは肥後国球磨(くま)郡と大隅国贈於(そお)郡の地域をあわせた地名で、現在の熊本県南部の球磨郡・人吉(ひとよし)市、鹿児島県北東部の一帯にあたるとも考えられている。しかしながら、古代においては複数の地名をあわせて一つの地域名とする例がほかにはほとんどみられないことからすると、この考え方には疑問もある。クマソは、ヤマトタケル(日本武尊・倭建命)による討伐物語で知られているように、つねに反大和(やまと)政権的存在であったことからすると、南部九州の未服属集団の総称とみるのがよいであろう。また「ソ」がその語幹で、「クマ」は勇猛・逆賊の意の形容とするのが妥当ともいえる。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によると、女王卑弥呼(ひみこ)と対立した狗奴(くな)国があったことが知られるが、この狗奴国をクマソとする説もある。クマソは、応神(おうじん)朝以後には『古事記』『日本書紀』ともにその名がみえなくなることや、その後の履中(りちゅう)天皇の条などからは、同じ南部九州の居住民として隼人(はやと)が登場し、概して大和政権に服属的態度がみられることからすると、隼人はクマソの後身として理解することも可能である。
(出典)コトバンク「日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊襲」の意味・わかりやすい解説」
3.おわりに
本連載においては、「魏志倭人伝」の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、皆さま、お楽しみいただけましたでしょうか。「邪馬台国の謎」は、まだまだ解明されていない点も多く、まさに歴史のロマンを感じるテーマの一つだと感じておりますが、短編歴史物エッセイ作家と教育コンサルタントである筆者としては、魏志倭人伝の原文のみならず、関連する古代中国の文献をしっかり読み解き、その歴史的背景や当時の科学技術なども踏まえながら、忠実に検証を進めると霧が晴れていくように、謎であったところが、鮮明となり、相互の因果関係なども明確になってくることが明らかになりました。
最後まで本連載にお付き合いくださった読者の皆様には深く感謝申し上げます。次回の短編歴史物エッセイのテーマは「倭の五王」です。こちらも、中国文献が残っていますが、現在においても所説あり、文献上の人物と実在した天皇との特定が明確になっていない謎の多いテーマですが、「邪馬台国の場所を探る」シリーズと同様に、関係する古代中国文献を忠実に読みながら、その歴史的背景や当時の科学技術なども踏まえつつ、検証に挑みたいと存じますので、引き続き、よろしくお願い申し上げます。
皆さま、「邪馬台国の場所を探る❺」はいかがでしたか。ついに、邪馬台国の全貌が明らかになりました!
次回作品の「倭の五王」のお話は、「邪馬台国」ほど知名度は高くはありませんが、古代日本の歴史を正確に理解するには極めて重要なテーマです。お楽しみに!