【後編】女系天皇
一、女系天皇とは
「女系天皇」とは、母親が天皇家の血筋の方で父親が他家の血筋の方が天皇に即位した場合を意味しています。初代の神武天皇から現在の今上天皇まで126代の天皇が即位されましたが、全員「男系天皇」(父親が天皇家の血筋の方)です。世界の王室では、こうした「男系」「女系」という考えは重視されていませんので、初代から男系の血筋が受け継がれてきているのは、大変珍しい例となっています。
前編の「女性天皇」において、8名の女性天皇がいらっしゃったことをご紹介しました。➀第33代推古天皇、➁第35代皇極天皇(第37代齊明天皇)、➂第41代持統天皇、④第43代元明天皇、⑤第44代元正天皇、⑥第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇)、⑦第109代明正天皇及び⑧第117代後桜町天皇です。念のため、皆様が「男系天皇」であることを改めて確認いたしましょう。
1.第33代推古天皇
第33代推古天皇の父親は、第29代欽明天皇です。父親が天皇家の方なので男系天皇です。
2.第35代皇極天皇(第37代齊明天皇)
第35代皇極天皇(第37代齊明天皇)の父親は茅渟王(ちぬおう)という皇族、祖父は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえおうじ)という皇族、曾祖父は第30代敏達天皇です。つまり、父親の茅渟王、祖父の押坂彦人大兄皇子はともに天皇には即位されませんでしたが、第30代敏達天皇の流れを受け継ぐ「男系皇族」なので、第35代皇極天皇(第37代齊明天皇)は男系天皇です。
皇極天皇は、第34代舒明天皇の皇后でいらっしゃったが、舒明天皇の崩御後、642年に第35代天皇として即位されました。また、お二人の間には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、645年に大化の改新を成し遂げた方)という息子さんがいらっしゃいましたが、父親が第34代舒明天皇なので、男系天皇として第38代天智天皇として即位されます。
654年、孝徳天皇が崩御され、本来であれば、皇太子の中大兄皇子がその後に即位されるところですが、皇太子の奏請により、母親が重祚されることとなり第37代齊明天皇が誕生しました。
3.第41代持統天皇
第41代持統天皇の父親は天智天皇です。父親が天皇家の方なので男系天皇です。
持統天皇は、第40代天武天皇の皇后でいらっしゃったが、天武天皇の崩御後、第41代天皇として即位されました。また、お二人の間には草壁皇子(くさかべおうじ)という息子さんがいらっしゃいましたが、天皇には即位されませんでした。草壁皇子は父親が第40代天武天皇なので、男系皇族です。
4.第43代元明天皇
第43代元明天皇も父親は天智天皇です。父親が天皇家の方なので男系天皇です。
元明天皇は、草壁皇子と結婚され、お二人の間には第42代文武天皇となられた息子さんと第44代元正天皇となられた娘さんがいらっしゃいました。
5.第44代元正天皇
第44代元正天皇の父親は男系皇族の草壁皇子で、父親が天皇家の方なので男系天皇です。
6.第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇)
第46代孝謙天皇の父親は第45代聖武天皇で、父親が天皇家の方なので男系天皇です。
764年、藤原仲麻呂が反乱を企てますが失敗に終わり、結局、後ろ盾を失った淳仁天皇が廃され、孝謙上皇が重祚され、第48代称徳天皇として即位されました。歴史上2回目の重祚の事例です。
7.第109代明正天皇
第109代明正天皇の父親は第108代後水尾天皇で、父親が天皇家の方なので男系天皇です。第48代称徳天皇以降、860年ぶりに女性天皇が誕生しました。
8.第117代後桜町天皇
第117代後桜町天皇の父親は第115代桜町天皇で、父親が天皇家の方なので男系天皇です。後桜町天皇は、歴史上10代8名いらっしゃった女性天皇の中で、最後の女性天皇となられた方です。1762年に即位されたので、今からちょうど260年前にあたります。
以上、歴史上、8名の女性天皇がいらっしゃいましたが、すべて父親が天皇又は男系皇族の方であり、男系天皇でした。ちなみに、歴代の男性天皇が男系天皇であることを説明していませんが、これにつきましては、宮内庁のホームページ「天皇系図」に歴代の天皇に関する詳細な系図が掲載されていますので、こちらでご確認ください。上述の歴代女性天皇について説明したとおり、すべての方々が男系天皇でいらっしゃいます。
二、英国王室の例
1.エリザベス女王
2022年9月8日、英国のエリザベス女王がお亡くなりなりました。96歳でした。女王は、1952年2月6日に父親のジョージ6世がお亡くなりになったことを受け、25歳で即位され、在位は70年と、約千年の歴史がある英国王室で、歴代最長の期間を女王としてのお役目を果たされました。
女王は、英国国民のみならず、世界中の人々から愛された人物で、正に「世界で知らない人がいない」と言っても過言ではないようなお方でした。
短編歴史物エッセイ「女性天皇と女系天皇【前編】」で詳しく説明したように、日本の歴代の女性天皇の方々もそれぞれの時代で天皇としてのお役目を果たして来られましたので、「女性には天皇は務まらない」とか、「女性には王室は務まらない」といったことを主張している方がもしいらっしゃるならば、それは単なる暴論であり、もはや聞く必要のない歪んだ考えと断定しても問題ないように思います。
2.フィリップ殿下
エリザベス女王は、即位前の1947年、ギリシア王室出身のエジンバラ公フィリップ氏と結婚されました。日本では「フィリップ殿下」と呼ばれていた方です。2021年4月9日、99歳でお亡くなりになられました。
フィリップ殿下の父親はギリシャ王子のアンドレアスという方で、母親はビクトリア女王(在位1837年~1901年)のひ孫であるアリス妃(アンドレアス王子妃)です。したがって、英国王室にも血縁がある方で、殿下はビクトリア女王の玄孫(やしゃご)です。
英国王室には、日本の皇室のように「男系」「女系」という考えは一切ありませんので、殿下も英国の王位継承権がある方のお一人でした。ただし、殿下はビクトリア女王の玄孫という位置づけなので、お亡くなりになった時点でその順位は485位であったと言われています。
さて、甚だ失礼ながら、日本の皇室のように「男系」「女系」という観点でみてみると、殿下の英国王室との関係は「女系」なので、日本流に言えば、英国王室家の方ではなく、他の家(ギリシャ王室)の方となります。
3.チャールズ国王
2022年9月8日、エリザベス女王のご長男であるチャールズ皇太子が国王に就任されました。チャールズ3世国王の誕生です。
世界中の人々にとって、エリザベス女王のご長男であるチャールズ皇太子が国王に就任されたことは、何の違和感もなく、当然のこととして受け止められているわけですが、ここでも、甚だ失礼なことではありますが、読者の方々に具体的に説明させていただきますと、日本の皇室のように「男系」「女系」という観点でみてみると話は違ってきます。
日本の皇室では「男系」しか継承権がないので、父親が必ず皇室家の方でないといけないわけですが、チャールズ国王の場合、父親はフィリップ殿下で、上述のとおり、殿下は、日本流に言えば、英国王室家の方ではなく、他の家(ギリシャ王室)の方なので、チャールズ3世には継承権はないということになります。
余談になりますが、男系皇室の正当性を主張する専門家の中に「Yの遺伝子」という考えを述べている方がいます。性別を決定する遺伝子には「X」と「Y」があり、「XY」だと男性、「XX」だと女性になるというところに着目した主張です。つまり、皇室では男系が代々守られているので、遺伝子「Y」が初代の神武天皇以来、脈々と受け継がれているということを主張しているわけです。確かに、代々受け継がれてきていること自体、すごい歴史の重みを感じます。一方で、遺伝子「Y」が受け継がれること自体に、生物学的な意味合いは何らありませんので、いわゆる、単なる「こじつけ」という感も否めません。
仮に、『遺伝子「Y」が受け継がれていかないと王室や皇室の正当性が保てない』と誰かが主張されている場合、英国王室など、他の王室では日本の皇室のように「男系」「女系」という考えは一切ありませんので、そもそも成り立ちません。つまり、遺伝子「Y」の主張は、英国王室など他国の王室の正当性を暗に否定し、誹謗していることと同じことです。他国の王室を否定したり、誹謗したりするような行為は厳に慎むべきです。
読者の皆さま方もこうした愚かな主張をしている方を見つけたら、積極的に注意して差し上げるとよいと思います。そうすると「私は英国王室など他国の王室の正当性を暗に否定したり、誹謗したりするようなことは一言も言っていない!」と強く否定されると思います。このように、表裏一体の事項について、都合のよい「表」の部分だけを述べて、都合の悪い「裏」部分を言及しなければそれでよしとする話術を多用する方々が世の中には多くいらっしゃいます。
こうした話術を多用する方々は、裏の部分については「言及さえしなければ問題ない」と考えておられますがそれは違います。そもそも、表裏一体の事項については、仮に一切言及しなくても、結局、上述のように他を否定したり、誹謗したりする結果を招くならば、そこに大きな違いはないのです。参考までに、神部龍章の部屋においては、『時事コラム・表裏一体の「表」だけ述べる話術』にて巧みな話術を展開することについて解説していますので、よろしければご覧ください。
三、男系天皇に関する歴史的背景
短編歴史物エッセイ「足利義満と勘合貿易」において、足利義満が1383年に「准三后(じゅさんごう)」の宣下を受けたことについて説明していますが、この准三后というのは「太皇太后、皇太后、皇后の三后(または三宮(さんぐう)という。)に准ずる待遇を与えられた者」に授けられた称号のことです。871年に清和天皇の外祖父・藤原良房(よしふさ)が最初にその称号を受けました。最初は天皇との姻戚関係に基づく称号でしたが、のちにその意味合いは薄れていき、義満の時代では、先々代の皇后様、先代の皇后様、今の皇后様に準ずる特別な待遇の人という意味での称号となっています。
清和天皇の外祖父・藤原良房(よしふさ)が最初に「准三后」の称号を受けたわけですが、こうした姻戚関係を獲得する動きは古くは大和朝廷の時代から行われてきました。
短編歴史物エッセイ「女性天皇と女系天皇【前編】」においても関連する記述がたくさんあります。初代女性天皇である第33代推古天皇が即位された経緯の説明では、当時の権力者である蘇我稲目が自分の娘を第29代欽明天皇に嫁がせ、自分の孫にあたる推古天皇を即位させたというものでした。
また、藤原不比等(藤原鎌足の子、持統天皇が手掛けた大宝律令の制定にも参画)が文武天皇と自分の娘との間に生まれた首皇子(おびとのおうじ、後の聖武天皇)の成長後の天皇継承を確保するため、天智天皇が定められた「不改常典(ふかいのじょうてん)」を掲げ「皇位継承は嫡子相続が必定」とする考え方を展開したという話も紹介しました。
このように、皇室を取り巻く有力豪族や貴族らは、天皇との姻戚関係を持つことで、自らの権威を高め、権力を掌握する手段として利用していました。しかしながら、誰も自らが天皇になることはできませんでした。そこで、よく用いられた手法としては、有力者が自分の娘を天皇の后とし、その子供、つまり孫が天皇に即位することで、自らが外祖父となるという方法です。外祖父とは母方の祖父ということですね。
天皇家という男系皇族で受け継がれていく「家」を確立させることで、周辺に存在する有力豪族や貴族らとの間に一線を引くという大きな目的がありました。どのように有力な豪族や貴族が天皇の周辺にいても、自らが天皇になることは決して許されず、最大の権力者の場合、天皇の外祖父となるという形までというところで整理されていました。こうした「家」の概念を守ることで、天皇家が蘇我氏や藤原氏などに乗っ取られることを防いできたわけです。
さらに、第48代称徳天皇(歴代6人目の女性天皇)の時代に、天皇は僧侶の道鏡を寵愛し、即位後、道鏡を太政大臣禅師に任じて政治に関与させ、さらに法王の位を授けられたことを説明しました。道鏡は皇位の継承まで望んだものと考えられていますが、天皇の地位は固く守られ、結局、770年に称徳天皇が崩御された後、下野薬師寺に左遷されてしまいました。
この称徳天皇のあと、女性天皇は江戸時代に第109代明正天皇が即位されるまでの860年間、一切出現しませんでした。この理由は、女性天皇の近くで、道鏡のように皇位の継承まで望む者が現れては困るという戒めが受け継がれてきたことが大きいと考えられます。
あくまでも仮定の話ですが、将来、皇室典範が改正され、再び女性天皇が認められることになり、めでたく愛子さまが天皇に即位されたときに、愛子さまの配偶者となった方(上述のエリザベス女王の場合では、フィリップ殿下の立場にあたる方)が自らが天皇になろうとしても、国民の誰一人として認めないことでしょうから、現代社会においては、そうした懸念は全く必要ないことは申し上げるまでもないことです。
四、女系天皇に関する筆者独自の考察
1.天智天皇が定められた「不改常典」
第38代天智天皇は、息子に皇位を継承させるために「不改常典(ふかいのじょうてん、別の読み方に、かわるまじきつねののり、あらたむまじきつねののり)」を定められ、「皇位継承は嫡子相続が必定」とする考え方を明確に示されたと伝わります。天智天皇の崩御後、大友皇子(第39代弘文天皇)がその後を継がれ、この「不改常典」は、文章として残っていないものの、皇位継承について直系継承を規定した法としてみる説などが有力とされています。
歴代3人目の女性天皇でいらっしゃった第41代持統天皇は、ご自分のお孫さんに譲位され、第42代文武天皇がまだ15歳の若さで即位されますが、ご病弱でしたので、25歳で崩御されたというお話を前編で説明させていただきました。文武天皇と后(藤原不比等の娘)との間には、首皇子(おびとのおうじ、後の聖武天皇)という方がいらっしゃいましたが、わずか6歳であり、直ちに即位されるには幼すぎました。
藤原不比等は自分の孫にあたる首皇子が成長した後に必ず即位させることを念頭に置き、上述の天智天皇が定められた「不改常典」を強く主張し、皇子の成長を待つまでの間、いわば中継ぎ役として、文武天皇の母親に天皇への即位を要請し、歴代4人目の第43代元明天皇が誕生したことについてもお話しました。元明天皇としては「自分のお孫さんである首皇子のためならば喜んで役目を果たしましょう」といった感じだったと思います。
ところで、このお話の中で、気になることが一つあります。元明天皇は父親が天智天皇なので、ご自分のお父さんが残した「不改常典」について、藤原不比等がこれを持ち出し、強く主張することについて、違和感はなかったと思います。
しかしながら、よく考えると、天皇家というのは男系継承なので、第40代天武天皇➡草壁皇子(天武天皇の息子)➡第42代文武天皇(草壁皇子の息子)➡第45代聖武天皇(文武天皇の息子・首皇子)となるので、首皇子は天武天皇直系の方となります。
藤原不比等は、自分の願いを成就させるため、節操もなく、天武天皇直系の首皇子を天皇に即位させるために、天智天皇の定められた「不改常典」を持ち出してきたのでしょうか?そして、天智天皇の娘にあたられる元明天皇に中継ぎ役を要請したのでしょうか?
そうではなくて、天智天皇の血筋を引く方という認識だったので、藤原不比等が持ち出してきた天智天皇の定められた「不改常典」の考えに同調し、協力したのではないかと考えるほうが筋が通っているように思います。
つまり、皇室は男系で継承されていくものだという原理原則は分かっていらっしゃったが、人としての心情としては、第38代天智天皇➡第43代元明天皇(天智天皇の娘)➡第42代文武天皇(元明天皇の息子)➡第45代聖武天皇(文武天皇の息子・首皇子)というお気持ちの方が強かったのではないかと考えます。
したがって、天皇家を守るためには皇室は男系で継承されていくものだという原理原則だという点は、当時、誰もが理解していらっしゃったが、人としては「男系も女系も関係ない」というお気持ちの方が強かったのではないかと推測されます。
さて、現在、一部の専門家の方々の中には、皇室は男系で継承されていくものだという原理原則を通すために、天智天皇の定められた「不改常典」よりも男系継承が優先すると主張している方がいらっしゃいますが、「あなたは天智天皇よりも上に立つ方か?」と聞きたくなります。本当に皇室を敬うお気持ちがあるのでしょうか?単にご自分の主張の正当性を高めるために言っておられるとしたら、不敬の極みです。
2.傍系で天皇家の血筋を引く方々
NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」で話題となった源頼朝やその敵役の平清盛といった源氏・平氏が武士の棟梁として崇められていた大きな理由に「天皇の血筋を引く高貴なお方」というものがあります。
源氏は第56代清和天皇(在位858年~876年)を祖としており、源頼朝は清和天皇のお血筋を引く傍系の男系男子のお一人です。そして、平氏は第50代桓武天皇(在位781年~806年)を祖としており、平清盛も桓武天皇のお血筋を引く傍系の男系男子のお一人です。
源頼朝や平清盛も直系皇族ではないのですが、天皇家のお血筋を受け継ぐ傍系の男系男子であれば皇位継承権があるという整理で考えると理論的には天皇に即位してもOKとなる訳です。天智天皇の定められた「不改常典」よりも男系継承が優先すると主張している方は、傍系であっても男系男子であれば、皇位継承権があると言ってますが、そうすると、源頼朝や平清盛のような方々は世の中にたくさんいらっしゃいますので、お血筋さえ証明できれば、誰でもOKですよと主張していることと大して変わらないわけです。
しかし、常識的に考えるとおかしい点が多々あります。例えば、世の中には天皇家以外でも、代々「家」を守って来たというお話は至る所にあります。ただし、いつも男子に恵まれるとは限らないので、後継ぎが娘さんの場合では、一般的には「婿養子」を立てて、その家を守るという方式がとられています。直系の娘さんを排して、遠縁の方で、今まで一度も会ったこともないような傍系の男系男子を探し出し、その家が受け継いできた資産・財産やその他すべてを突然お譲りするということはあり得ないと思います。
したがって、天智天皇がご自分の息子さんに皇位を継承させるために定められた「不改常典」に基づき、「皇位継承は嫡子相続が必定」とする考え方を最優先し、その他は、やむを得ない状況に応じて考えるというのが道理であると考えます。
3.歴史上実際ににあった皇位継承の危機(第26代継体天皇の登場)
皆さまは、第26代継体天皇という方をご存じでしょうか?学校の歴史の授業では登場されないし、テレビドラマなどでもお見掛けしないので、ご存じない方も多いのではないかと思います。57歳まで地方豪族として在野にいらっしゃった方が突然、朝廷からの要請を受けて皇室に入り、天皇に即位されたという方です。
宮内庁のホームページ「天皇系図」においては、第15代応神天皇のお血筋を引く男系男子として整理されています。系図では応神天皇の5世孫に当たられる方となります。
506年、第25代武烈天皇が崩御されますが、皇太子がいらっしゃらなかったので、天皇家は断絶の危機を招きます。当時の有力豪族であった大伴金村(おおとものかなむら)たちは、有力な皇位継承者を探し、「男大迹王(おほどのおおきみ)」として越前地方を統治していた方に天皇への即位を要請し、第26代継体天皇が誕生します。
ところで、第25代武烈天皇は日本書紀に「この天皇はもろもろの悪いことをして、一つも善いことをしなかったので人民は皆恐れた」として、その凶暴ぶりが記されている大変な暴君であったと伝えられています。あまりにも酷い行いなので、ここでの紹介は省略させていただきますが、ご関心のある方は、コトバンク『日本大百科全書(ニッポニカ)「武烈天皇」の解説』をご参照ください。
さて、継体天皇については以下のような記述があります。詳しくは参考までに2つの引用を紹介させていただきますので、こちらをご覧いただきたいと思いますが、ここで記載されていることを整理すると次のような論点となります。諸説ありますが、「新王朝の始祖とする見解が有力」とする考え方が記述されています。
- 応神天皇の5世孫とされる方
- 武烈天皇の死去でその王統が絶えたため越前国からお越しになったこと
- 天皇に即位し、第24代仁賢天皇皇女の手白香(たしらか)皇女を皇后としたこと
- 樟葉宮(枚方市)で即位し、その後、筒城宮(京都府綴喜郡)、弟国宮(向日市)と移り、即位後20年にしてようやく大和の磐余玉穂宮(桜井市)に入ったこと
- 前王統とは血縁関係がなく,その人格,資質により大王となったと考えられること
継体天皇と手白香皇后との間に、男子が誕生し、後に第29代欽明天皇となられます。実は、継体天皇の崩御後、系図上は、第27代安閑天皇、第28代宣化天皇、第29代欽明天皇と円滑に順番に即位されたと整理されていますが、ここでも諸説があり、継体天皇の崩御後、欽明天皇が即位を表明され、安閑天皇・宣化天皇の流れと重なっていたのではないかとする考え方もあります。その中では、安閑天皇が実際に即位されたのが534年で在位は2年間であったとする説もあります。
安閑天皇と宣化天皇は、継体天皇が在野にいらしたときのご子息なので、継体天皇が崩御されたときにはかなり高齢であったと言われており、欽明天皇との間でお血筋の関係などでの対立や大伴氏と物部氏との対立などに巻き込まれたなどの話もあり、混とんとしていた時代です。
539年に宣化天皇が崩御されたのち、欽明天皇の時代になりますが、大伴氏と物部氏との対立が激化する中、大伴金村は、物部尾輿(もののべのおこし)らから朝鮮半島における外交政策の失敗(百済からの任那4県の割譲要求を受け入れ、任那の信頼を失ったことに関する政策判断)を追及され、失脚し、それ以降大伴氏は力を失っていきます。そして、欽明天皇に近づいた蘇我氏が台頭してきます。読者の皆さまは覚えておられるでしょうか?欽明天皇は、第33代推古天皇の父親です。母親が蘇我稲目の娘ということで初の女性天皇に即位されたお話は前編にて説明させていただきました。
さて、第29代欽明天皇は、継体天皇と手白香皇后(第24代仁賢天皇の娘)との間に誕生した男子なので、仮に、上述のとおり、継体天皇が前王統とは血縁関係がなく,その人格,資質により大王となったと考えられるとしても、もともとの天皇家のお血筋は受け継がれたことになります。ただし、父親が他の家の方であるとすると、母親が天皇家の方にあたることになるので、「女系天皇」ということになります。
日本大百科全書(ニッポニカ)「継体天皇」の解説
継体天皇(けいたいてんのう)(?―531)記紀に第26代と伝える天皇。没年は527年、534年の説もある。応神(おうじん)(誉田(こんだ))天皇の5世孫とされ、名は男大迹(おおど)(『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと))、またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)という。6世紀初頭に越前(えちぜん)(福井県)あるいは近江(おうみ)国(滋賀県)から大和(やまと)(奈良県)の磐余宮(いわれのみや)に入って新しい王統(王朝)を築いた天皇として有名。
『日本書紀』によれば、武烈(ぶれつ)(小泊瀬(おはつせ))天皇に継嗣(あとつぎ)がなかったので、大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)が中心となって越前の三国(みくに)(福井県坂井(さかい)市。『古事記』では近淡海国(ちかつおうみのくに))から迎え入れたとある。
この天皇の出自については、遠く越前から入ってきたこと、大和に入るまで20年を経ていること、応神5世孫とされているがその間の系譜が明示されていないことから、地方の一豪族で、武烈亡きあとの大和王権の混乱に乗じて皇位を簒奪(さんだつ)した新王朝の始祖とする見解が有力である。
しかし、記紀編纂(へんさん)よりも古くさかのぼる『上宮記(じょうぐうき)』には、天皇の父系・母系の詳細な系譜が明示されていること、仁賢(にんけん)天皇の女(むすめ)手白香(たしらか)皇女を皇后としていること、継体を受け入れた大和王権自体はなんら機構的にも政策的にも質的転換をみせていないことから、継体を大和王権内部に位置した王族と考える見解もある。
コトバンク・日本大百科全書(ニッポニカ)「継体天皇」の解説
朝日日本歴史人物事典「継体天皇」の解説
継体天皇(けいたいてんのう)生年:生没年不詳
6世紀前半の第26代に数えられる天皇(大王)。諱は男大迹。応神天皇の5世孫という。『日本書紀』によれば,彦主人王が近江国高嶋郡の三尾(滋賀県高島町)の別宅に越前国三国の坂中井(福井県三国町)から振姫を迎えて継体天皇が誕生。彦主人王の死後,振姫は郷里に帰り継体天皇を養育した。武烈天皇の死去でその王統が絶えたため,大伴金村らによって継体天皇が越前から迎え入れられ,樟葉宮(枚方市)で即位し,仁賢天皇皇女の手白香皇女を皇后とした。しかし,筒城宮(京都府綴喜郡),弟国宮(向日市)と移り,即位後20年にしてようやく大和の磐余玉穂宮(桜井市)に入ったという。
その即位事情は極めて異常で,実は,前王統とは血縁関係がなく,その人格,資質により大王となったと考えられる。
継体天皇の后妃となった氏族(息長,三尾,茨田,尾張の各氏など),および継体天皇と擬制的血縁関係を持つ氏族は,近江国諸郡と越前国を中心に美濃(岐阜県),尾張(愛知県),河内国(大阪府)に広がる地域の諸首長であり,琵琶湖,淀川の水上交通により結び付いたこれらの首長たちが天皇を支えていたとみられる。
コトバンク・朝日日本歴史人物事典「継体天皇」の解説
4.万世一系と王朝交代論
日本の皇室は、初代の神武天皇から現在の今上天皇まで126代の天皇までの間、一つの系統のお血筋が受け継がれているとされており、「万世一系(ばんせいいっけい)(永久に一つの系統が続くこと。 多くは皇室・皇統についていう。)」の考え方が基本となっています。
一方、戦後、立憲君主制の終焉とともに、天皇制についても自由に研究を発表できる社会となり、歴史学者の水野祐(みずのゆう)氏(1918年-2000年、元早稲田大学名誉教授)は、1954年、万世一系的神聖皇統は史実に反するとして、古代には血統を異にする三つの王朝が交替したとする「王朝交代論」を提唱しました。
これは、古事記・日本書紀の詳細な研究に基づき、第14代仲哀天皇(在位192年~200年)と第15代応神天皇(在位270年~310年)との間に一つの段落があると指摘し、仲哀天皇以前を「古王朝」、応神天皇から武烈天皇までを「中王朝」、そして継体天皇以降を「新王朝」とする異なる血統の3王朝が存在し、現天皇は継体王朝の末裔であるという説です。この考え方は、研究者らに大きな影響を与え、賛否両論が展開されました。上述の継体天皇に関する百科事典の説明等を2つ紹介しましたが、これらの説明は、こうした説をもとに記載されていると思われます。ただし、現在では、水野祐氏が主張するような血縁の完全な分断ではなく、何らかの血縁関係が受け継がれてきたとする考え方が主流となっています。
したがって、継体天皇に即位した「男大迹王」は越前や近江地方を治める単なる地方豪族ではなく、天皇家の血縁縁者であったとする考え方が有力です。しかし、大伴金村らの要請に応じて天皇に即位されましたが、即位後20年間は大和には行かず、別の場所で過ごされたのは、大和の宮には継体天皇の即位に反対する勢力が多く、身の危険を感じて避けておられたと考えられます。
やはり、「天皇家のお血筋を引く遠縁の方が明日から大王になられます。」とか言われて、都から離れた地方で過ごしておられた方が突然、天皇に即位されても、簡単には受け入れられないとする心情は大いに理解できます。この点については、現在社会においても、皇室の将来を議論する中で、一部の専門家には「傍系でも男系男子のお血筋さえ確認できれば問題なし」とする意見を展開している方もいますが、象徴天皇となった現在でも、そのような皇位継承は国民感情として受け入れられないことを歴史から学ぶべきです。
上述のとおり、継体天皇が在野にいらしたときのご子息である安閑天皇と宣化天皇はともにご高齢であったので、即位後短い在位期間にてお亡くなりになりますが、その後、仁徳天皇以降のお血筋を受け継ぐ欽明天皇の時代になって安定します。天皇家のご血縁と言われても遠い親戚のような方が大王となり、その息子さんたちが受け継いだのでは、当時の社会においてもその正当性が確立できなったと考えられます。
したがって、欽明天皇が正当な天皇として受け入れられたのは、母親の手白香皇后が仁徳天皇のお血筋を受け継ぐ仁賢天皇の皇女であったことが大きく影響しています。そうです。奇しくも、「女系天皇」としてのお立場が欽明天皇の正当性をもたらしたと申し上げても過言ではないと考えます。
五、女性天皇と女系天皇のまとめ
1.女性天皇について
短編歴史物エッセイ「女性天皇と女系天皇【前編】」の冒頭で申し上げたとおり、愛子さまは、国民から深く尊敬・敬愛されている上皇さま、天皇陛下の直系のお血筋で、お人柄、ご品格、皇族としてのご自身のお立場に対するお考え、常に国民に寄り添っておられるお姿など、すべてが素晴らしく、私は個人的に次の天皇に一番ふさわしいお方であると思っており、その実現に向けた道が開かれることを願っている一人です。
しかしながら、皇室典範第一条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と定められており、明治時代になって皇位は男系の男子に限られることとなり、それが現在まで受け継がれてきていることから、残念ながら、現状では、愛子さまには皇位継承権が認められておりません。
明治時代に入り「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と定められたのは、明治から戦前においては、天皇は立憲君主制の頂点に立ち、国を統率する方という位置づけであったことなどが重視された結果であると考えられます。しかしながら、日本国憲法第一条〔天皇の地位と主権在民〕においては「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定められています。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」に女性がなってはいけないとする理由は一切ありません。
また、歴史上、女性天皇が誰一人としていらっしゃらなかったのであれば、慎重に考える必要があるかもしれませんが、10代8名の女性天皇がそれぞれの時代で活躍されました。歴史上の事実として、女性天皇を否定する理由はどこにもないのです。
現在の今上天皇がご健在でいらっしゃるので、皇室典範の改正は、ゆっくり時間をかけて考えましょうとするお考えの方々も多くいらっしゃると思いますが、一度、皇室を離れた方が再び戻って来られることは容易なことではありません。上述で紹介したとおり、在野にいらした継体天皇は即位後、容易には受け入れられなったことなどを踏まえれば、愛子さまが近い将来、ご成婚により皇室を離れてしまわれる前に、皇室典範の改正が必要です。
まずは、「女性天皇」を再び可能とする改正がよいと思います。「女性天皇」と「女系天皇」の議論を切り離せば、歴史上の事実を踏まえても成り立ちやすいと思料します。
皇室典範第一条は「皇位は、皇統に属する男系の男女が、これを継承する。」と改めるべきだと考えます。「男子」を「男女」に改めると、女性天皇については成立します。長い歴史と伝統を誇る我が国皇室における女性天皇の歴史をきちんと受け止めるべきです。
2.女系天皇について
繰り返しになりますが、日本国憲法第一条〔天皇の地位と主権在民〕においては「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定められています。「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」というところが大切です。国会議員や有識者の先生方に何もかもお任せするのではなく、私たち国民ひとり一人が関心を持って、「国民の総意」は何かということを考えることが重要であると思います。
女系天皇の可否については、少し時間をかけて国民的議論を進めることを提案します。
筆者としては、初代の神武天皇から現在の今上天皇まで126代の天皇が即位されましたが、全員「男系天皇」(父親が天皇家の血筋の方)であるという歴史的重みを軽視すべきではないと思います。しかし、一方で、上述の考察のところで説明したとおり、天皇家のお血筋が母親から受け継ぐ場合でも、天皇としての正当性を証明する方法として理解されていたことを踏まえると、「絶対にありえない」といったレベルの話ではないと考えます。
実際、第29代欽明天皇は、母親から仁徳天皇以降のお血筋を受け継ぐことで、当時の社会においてもその正当性が受け入れられ、その後、正に現在まで脈々と続く天皇家の位置づけを確立された方となられました。奇しくも「女系天皇」としてのお立場で仁徳天皇以降のお血筋を受け継ぐことがその正当性と権威を高められた点は見逃せない歴史上の事実として受け止めるべきです。
かつては、一夫多妻制のもと、現在と比べると天皇家においても男子の子宝に恵まれる機会は圧倒的に大きかったわけですが、現代社会においては、そのような一夫多妻制が認められることは絶対にありませんから、代々必ず男子のみが皇位を継承するという考えは成り立たないと思います。
現在、皇族として皇室を守っておられる方々は限られています。「女性皇族におかれては、ご成婚後には民間に出てください。」といった考えを続けていくと皇室の安定した将来が見通せなくなってしまいます。特に、皇位継承については、天智天皇が定められた「不改常典(ふかいのじょうてん)」に基づき「皇位継承は嫡子相続が必定」です。傍系であっても男系男子のお血筋の方を民間から発見してお連れすれば、天皇家は永遠に守られ、国民にいつも受け入れられると主張されている方々はお考えを改めるべきです。そのような方をお連れしても、いつも国民から「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として受け入れられるものではないことを直視するべきです。歴史の事実がそれを物語っています。
最後に、日本国憲法第一条〔天皇の地位と主権在民〕「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」を改めて申し上げます。私たち国民ひとり一人が関心を持って、「国民の総意」は何かということを考えることが重要であると思います。
女性天皇と女系天皇【後編】を最後までご覧いただき、有難うございます。
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