『宋書』倭国伝と『古事記』の解読による考察
1.「讃」は誰か?
(1)『宋書』における他の倭国王との記述の違い
皆さま、こんにちは。神部龍章です。前回の「倭の五王❸~『古事記』の解読による検証~」はいかがでしたでしょうか?今回の「倭の五王❹」では、『宋書』の倭国伝及び『古事記』に基づく考察を行い、「倭の五王は誰か?」を解き明かして参ります。古代中国の歴史文献の解読を通した考察をお楽しみくださいませ。
さて、ここで改めて『宋書』に登場する年号や授けられた官職などについて確認いたしましょう。「珍」、「済」、「興」及び「武」の4名は、それぞれ「倭国王」などの称号をもらい、倭国の王(天皇)であることが明らかですが、一方で、「讃」については、そうした記述がありません。讃に関する原文を再度確認すると「貢職髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授(永初2年(421年)、高祖(南宋朝の武帝(劉裕))は詔を発し、倭国の讃は、遠くから誠意をもって貢ぎ物を送ってきたので、官職を授けるべきであると言いました。)」、「太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物(太祖(南宋朝の文帝)の時代の元嘉2年(425年)、「讃」は、再び司馬の曹達を派遣して表を奉り、方物を献上しました。)」とだけ記述されています。そうです、「讃」については、「倭国王」であるとは一言も書かれていません。
- 讃は、421年、南朝宋の初代皇帝の武帝に朝貢を行い、官職を授けられた。
- 讃は、425年、南朝宋の第3代皇帝の文帝にも朝貢を行った。
- 讃が亡くなると、讃の弟の珍は、自らを「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と称し、朝貢し官職の除正を求めた。
- 珍は、詔により「安東将軍倭国王」に任命された(年代不明)。
- 倭国王の済は、443年、「安東将軍倭国王」に任命された。
- 済は、451年、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号も獲得。
- 倭王の世継ぎである興は、462年に「安東将軍倭国王」の称号を得た。
- 武は、478年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命された。
倭國在高驪東南大海中丗修貢職
貢職髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物
(出典)ウィキソース「宋書倭国伝」
倭国は、高句麗の東南の大海の中にあり、長い間貢ぎ物を送ってきました。永初2年(421年)、高祖(南宋朝の武帝(劉裕))は詔を発し、「倭国の讃は、遠くから誠意をもって貢ぎ物を送ってきたので、官職を授けるべきである。」と言いました。太祖(南宋朝の文帝)の時代の元嘉2年(425年)、讃は、再び司馬の曹達を派遣して表を奉り、方物を献上しました。
宮内庁の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」において、『宋書』の画像資料を閲覧することができます。(※「出版物及び映像への利用(写真掲載・翻刻など)については、図書寮文庫出納係への申請が必要」とのことなので、リンク先より直接サイトをご覧ください。)
画像資料のp33/63をご覧ください。右から6行目の「倭國在高驪東南大海中丗修貢職」から倭人伝の内容が始まり、p35/63の右行目までに記載されています。

ウエブサイト『古事記』(seisaku.bz)「古事記、全文検索」において、古事記の原文を閲覧することができます。

ウエブサイト『日本書紀』(seisaku.bz)「日本書紀、全文検索」において、日本書紀の原文を閲覧することができます。
(2)『宋書』と『古事記』の記載に基づく年代の対査表を再確認
『宋書』と『古事記』の記載に基づく年代の対査表を再度確認しましょう。421年と425年における在任期間を見ると、仁徳天皇の時代であったことがわかります。しかし、ここで『宋書』における重要な記述を思い出してください。「讃死弟珍立遣使貢獻・・・(讃が死ぬと、弟の珍が立ち、使者を派遣して貢ぎ物を献上し、・・・)」ということで、「讃」と「珍」は兄弟であると書かれています。つまり、「讃」が仁徳天皇ではなく、履中天皇であると仮定すると、『宋書』のこの記述と一致します。確かに『古事記』の記述によれば、履中天皇が64歳で崩御された後に、弟の反正天皇が即位されています。

(3)(仮説)「讃は履中天皇」に関する考察
『古事記』の記述によれば、421年は仁徳天皇の在任期間中でしたが、ご年齢は77歳、そして425年では、81歳とかなりのご高齢でした。したがって、息子(のちの履中天皇)が当時父親に代わって政務を担っていたと十分考えられます。そうした中、中国においては、混乱が続く東晋において実権を掌握した劉裕が420年(永初元年)、東晋最後の皇帝恭帝から禅譲されて即位し、宋を建国しました。当時の倭国は、朝鮮での覇権争いの中、その立場を優位にするため、新たに安定した王朝が誕生したことを見逃さず、直ちに南朝「宋」に対し、朝貢を開始しますが、その記録が421年(永初2年)の讃からの朝貢として記録されています。
当時、皇太子であった履中天皇が仁徳天皇に代わって朝貢を行っていたと考えると、421年と425年の「讃」に関する記述に倭国王としての記載がないのは当然であり、そして、その後に、皇帝に朝貢し、倭国王の称号をさずけられた「珍」が「讃」の弟であるという記述にも合致します。
したがって、倭の五王のうち「讃は履中天皇であった」という仮説を立てることで、『宋書』と『古事記』の記載における整合性がすべて確保されることがわかりました。以上のことから、倭の五王のうち「讃は履中天皇、珍は反正天皇」として結論づけることができます。
- 「讃」は、第17代履中天皇。
- 「珍」は、第18代反正天皇。
さらに、「倭の五王❷」において、済、興及び武の3名の比定を行いました。
- 「済」は、第19代允恭天皇。
- 「興」は、第20代安康天皇。
- 「武」は、第21代雄略天皇。
これで「倭の五王」の5名について、すべて比定することができました。
2.まとめ
420年、中国においては、各地での戦乱などにより、当時、中国大陸の南方を支配下においていた東晋の弱体化が進む中、実権を掌握した劉裕が東晋の最後の皇帝から禅譲され、南朝「宋」を建国しました。
倭国は、朝鮮半島における利権争いを展開する中、中国において新たに安定した王朝が整理したことに注目し、この利権争いを有利に進めるために、新王朝の中国皇帝に対し、直ちに朝貢を開始しました。421年、「讃」による最初の朝貢が記録され、続いて、425年にも「讃」は朝貢しています。
『日本書紀』の天皇在位期間については、「日本古代史」における『記紀』に見る天皇没年の違いにおいて掲載されている分析チャート(下図参照)を見ると明らかなように、初代神武天皇から始まる神話の時代を経て、第16代仁徳天皇に至るまでの期間、歴代天皇の寿命があえて長く記録されていることがわかります。「日本古代史」様、素晴らしい分析チャートのご発表、有難うございます。この場をお借りして御礼申し上げます。
こうした『日本書紀』の記述は、国家の歴史を古く見せるためや、天皇の権威を高めるために、神話の世界における歴代天皇のほか、実在された方についても個性的で有力であった古代天皇の寿命をあえて長く書いたと考えられます。

また、『古事記』においても15名の天皇については、崩御干支が記載されていることに注目すると、上図の分析チャートより、一般的に実在したとされる第10代崇神天皇から第19代允恭天皇までの期間、異なる傾向で記録されていることがわかります。このため、以下のとおり、『日本書紀』に基づく天皇在位期間と『宋書』倭国伝の記述において顕著な不一致が見られ、「倭の五王」とは誰かという謎を生む原因となっています。
(図)『日本書紀』に基づく天皇在位期間と『宋書』倭国伝の記述の不一致

人間の寿命は、個々の健康状態やその時代の生活環境等によって大きく異なりますが、上述の分析チャートのように少し長いトレンドで追いかけると、急激な変化には正当な理由づけが困難であることから、『古事記』の崩御干支を採用した方が正しく検証ができる可能性が高いことが推察されます。
本稿の(連載)においては、こうした観点に立ち、『宋書』と『古事記』の記述を対査し、詳細に検証を行い、それらの結果を考察することで、倭の五王に関する比定を進めました。以下の図がその検証結果をまとめたものです。『日本書紀』の記述は、『宋書』の記述と一致しませんでしたが、『宋書』と『古事記』の記述は、きちんとリンクしていること確認することができました。
南朝「宋」が建国された420年から滅亡した479年までの間、第17代履中天皇が皇太子の時代に朝貢したことから始まり、代々の天皇が宋への朝貢を続け、緊密な関係を築こうとしていたことがわかりました。
- 「讃」は、第17代履中天皇。
- 「珍」は、第18代反正天皇。
- 「済」は、第19代允恭天皇。
- 「興」は、第20代安康天皇。
- 「武」は、第21代雄略天皇。


皆さま、《連載》「倭の五王」はいかがでしたか。国家の歴史を古く見せるためや、天皇の権威を高めるために、あえて古代天皇の寿命を長く記載している『日本書紀』の記録に基づくと『宋書』に登場する年号と全く一致しなかったのですが、信ぴょう性が高いと思われる『古事記』の崩御干支に着目し、『宋書』と『古事記』の対査を行ったところ、「倭の五王」がどの天皇に対応しているのかについて、明らかにすることができました。また、「倭の五王」の比定作業を通して、西暦何年の出来事であったのかを明確にできたことで、当時の日本と中国における歴史的背景もクリアーに解明できました。4回にわたる連載にお付き合いいただき、誠に有難うございました!心よりお礼申し上げます。