短編歴史物エッセイ

倭の五王❹(最終回)

2025年3月21日

論文『女性天皇と女系天皇』
論文『女性天皇と女系天皇』

歴史上1度だけ皇位継承の危機があった。57歳まで地方豪族であった第26代継体天皇は第15代応神天皇の5世孫で、朝廷からの要請を受け天皇に即位されたが、人々に受け入れられなかった。皇室直系の血筋を持つ手白香皇后との間に生まれた皇子が成人し、第29代欽明天皇が誕生し、ようやく安定した。つまり、欽明天皇は「女系天皇」である。

【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
【論文】『邪馬壹國の場所を探る』

令和6年12月4日、神部龍章は学術論文『邪馬台国の場所を探る』を発表。邪馬壹國は、鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけて存在したと結論。最も有力な候補地は、宮崎県の西都原古墳群あたりと推定。「科学的根拠」から迫るアプローチと「文献解読」から迫るアプローチを重ね合わせることで邪馬壹國の場所の特定が完成。

倭の五王❹(最終回)
倭の五王❹(最終回)

国家の歴史を古く見せるため、天皇の権威を高めるために、あえて古代天皇の寿命を長く記載している『日本書紀』の記録では説明できなかった「倭の五王」は、信ぴょう性が高いと思われる『古事記』の崩御干支に着目し、『宋書』との対査を行ったところ、「倭の五王」がどの天皇に対応しているのかについて、明らかにすることができた。

倭の五王❸『古事記』の解読による検証
倭の五王❸『古事記』の解読による検証

『古事記』の解読による検証。宮内庁ホームページ「天皇系図」の古代歴代天皇の在位期間は、基本的に日本書紀の記述に基づいていますが、『宋書』倭国伝の解読による検証でご説明したとおり、これらは倭の五王に関する記録と全く一致しません。そこで、『古事記』に着目し、詳しく記述内容を紹介しつつ、『宋書』との対査を試みます。

倭の五王❷『宋書』の解読による検証!
倭の五王❷『宋書』の解読による検証!

倭の五王のうち、第19代允恭天皇が「済」、第20代安康天皇が「興」、第21代雄略天皇が「武」である。中国古代史書『宋書』の中に「夷蛮伝」があり「倭国伝」はその一部。主な内容は宋朝に対する倭国王の朝貢と任官。倭の五王が朝鮮半島の覇権を視野に入れ、頻繁に宋朝に朝貢し、皇帝から任官されている様子が記載されている。

倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!
倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!

『宋書』に登場する倭国の5代の王は、「讃」「珍」「済」「興」「武」という名前で登場。日本古代の歴代天皇を指しますが、具体的に「どなたか?」は所説あります。本連載では、「宋書」の原文を忠実に読み、歴史的背景を整理しながら、倭の五王の謎に迫り、様々な観点から古代日本の年号が西暦何年なのかを解明して参ります。

邪馬台国の場所を探る❺(最終回)
邪馬台国の場所を探る❺(最終回)

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、大変お待たせしました。女王卑弥呼がいた邪馬台国、その女王国に従う国々を監察する伊都國、そして倭国の規模、さらに、女王国の南方に位置し、敵対する狗奴國の位置関係を作図することで明らかにいたします。

邪馬台国の場所を探る❹
邪馬台国の場所を探る❹

『魏志倭人伝』に詳細に記載されている倭人の生活習慣や倭国の自然、そして諸国を観察する様子に触れた後、いよいよ卑弥呼が登場。親魏倭王・卑彌呼への「みことのり」、下賜された品々とそれらの意義、正始元年以降の出来事を経て、正始8年(西暦247年)卑弥呼が死亡します。そして、最後は彼女の死後の様子が描かれています。

邪馬台国の場所を探る❸
邪馬台国の場所を探る❸

『魏志倭人伝』の内容を吟味するには、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえる必要があります。ある一節の中で「邪馬台国」の場所を書き表していたのです。これを読み解くには、きちんと中国古代の歴史故事を踏まえつつ、後漢の時代には確立していた「周碑算経」の中に登場する「一寸千里法」を使えば解決できるものだったのです。

邪馬台国の場所を探る❷
邪馬台国の場所を探る❷

「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。」女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。原文から謎を解く。作者の意図を読むことが肝要。すぐには行くことができない遠く離れたところにある国々というのは女王国に属する国々ではない。

邪馬台国の場所を探る❶
邪馬台国の場所を探る❶

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が伝えたかった事実を解明し、邪馬台国の場所の謎に迫ります。後漢の時代にすでに完成していた「周碑算経」という朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書の原文が示す方法「1寸千里法」等を用い、魏志倭人伝の距離・方位を正確に検証し、邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチ!

女性天皇と女系天皇【後編】
女性天皇と女系天皇【後編】

「女系天皇」とは、母親が天皇家の血筋で父親が他家の血筋の方が天皇に即位した場合を意味します。初代の神武天皇から現在の今上天皇まで126代の天皇が即位され、全員「男系天皇」ですが、第29代欽明天皇は、母親から仁徳天皇以降のお血筋を受け継ぐことで、当時の社会においてもその正当性が受け入れられたという歴史的事実等を解説!

女性天皇と女系天皇【前編】
女性天皇と女系天皇【前編】

女性天皇と女系天皇、一字違うだけであるが意味は全く違う。歴史上、女性天皇は8名の方がいらっしゃった。現在の皇室典範では男系の男子が皇位を継承することが定められているが、これは歴史上の事実が軽視されている。過去の女性天皇がどのような経緯で即位されたのか、果たされたお役目は何かなどについて詳しく解説。

足利義満と勘合貿易
足利義満と勘合貿易

~明国皇帝に冊封を申し出た偉人~
1401年、義満は「日本国准三后源道義」と名乗り、明国に使節を派遣する。明国の第二代皇帝・建文帝から日本国君主として認められる。翌年1402年、明国から詔書には「日本国王源道義」と記され、また、義満自身も「日本国王臣源」として返書を送り明の冊封を受けた。冊封体制の成立である。日本と明国との間で勘合貿易が始まる。

阿部正弘と井伊直弼
阿部正弘と井伊直弼

~二人の米国人に対抗した日本の偉人たち~
老中阿部正弘は、ペリー来航から日米和親条約締結に至る歴史的難局を乗り切った。若くして難局を乗り切った歴史上の偉人だ。ペリーは浦賀の前に琉球王国を訪問していた。大老井伊直弼は、安政の大獄の印象が強い人物であるが、「横浜開港」に貢献した偉人だ。ハリス総領事の強力な主張に対し、既成事実を積み上げて押し切った 。

琉球王朝の歴史
琉球王朝の歴史

~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~
沖縄では「万国津梁の精神」という言葉がある。万国津梁之鐘にその記録が残ることに由来する。万国津梁とは「世界の架け橋」という意味だ。沖縄の発展や未来展望を語る際には欠かせない。琉球王朝は、国際貿易で大繁栄を極めた。その鍵は明国の朝貢貿易と冊封体制にある。なぜ小さな島の王朝が大繁栄したのか、その謎に迫る 。

previous arrow
next arrow
論文『女性天皇と女系天皇』
【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
倭の五王❹(最終回)
倭の五王❸『古事記』の解読による検証
倭の五王❷『宋書』の解読による検証!
倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!
邪馬台国の場所を探る❺(最終回)
邪馬台国の場所を探る❹
邪馬台国の場所を探る❸
邪馬台国の場所を探る❷
邪馬台国の場所を探る❶
女性天皇と女系天皇【後編】
女性天皇と女系天皇【前編】
足利義満と勘合貿易
阿部正弘と井伊直弼
琉球王朝の歴史
previous arrow
next arrow

『宋書』倭国伝と『古事記』の解読による考察

1.「讃」は誰か?

(1)『宋書』における他の倭国王との記述の違い

 皆さま、こんにちは。神部龍章です。前回の「倭の五王❸~『古事記』の解読による検証~」はいかがでしたでしょうか?今回の「倭の五王❹」では、『宋書』の倭国伝及び『古事記』に基づく考察を行い、「倭の五王は誰か?」を解き明かして参ります。古代中国の歴史文献の解読を通した考察をお楽しみくださいませ。

 さて、ここで改めて『宋書』に登場する年号や授けられた官職などについて確認いたしましょう。「珍」、「済」、「興」及び「武」の4名は、それぞれ「倭国王」などの称号をもらい、倭国の王(天皇)であることが明らかですが、一方で、「讃」については、そうした記述がありません。讃に関する原文を再度確認すると「貢職髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授(永初2年(421年)、高祖(南宋朝の武帝(劉裕))は詔を発し、倭国の讃は、遠くから誠意をもって貢ぎ物を送ってきたので、官職を授けるべきであると言いました。)」、「太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物(太祖(南宋朝の文帝)の時代の元嘉2年(425年)、「讃」は、再び司馬の曹達を派遣して表を奉り、方物を献上しました。)」とだけ記述されています。そうです、「讃」については、「倭国王」であるとは一言も書かれていません。

  • 讃は、421年、南朝宋の初代皇帝の武帝に朝貢を行い、官職を授けられた。
  • 讃は、425年、南朝宋の第3代皇帝の文帝にも朝貢を行った。
  • 讃が亡くなると、讃の弟の珍は、自らを「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と称し、朝貢し官職の除正を求めた。
  • 珍は、詔により「安東将軍倭国王」に任命された(年代不明)。
  • 倭国王の済は、443年、「安東将軍倭国王」に任命された。
  • 済は、451年、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号も獲得。
  • 倭王の世継ぎである興は、462年に「安東将軍倭国王」の称号を得た。
  • 武は、478年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命された。

倭國在高驪東南大海中丗修貢職

貢職髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授

太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物

(出典)ウィキソース「宋書倭国伝」

 倭国は、高句麗の東南の大海の中にあり、長い間貢ぎ物を送ってきました。永初2年(421年)、高祖(南宋朝の武帝(劉裕))は詔を発し、「倭国の讃は、遠くから誠意をもって貢ぎ物を送ってきたので、官職を授けるべきである。」と言いました。太祖(南宋朝の文帝)の時代の元嘉2年(425年)、讃は、再び司馬の曹達を派遣して表を奉り、方物を献上しました。

 宮内庁の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」において、『宋書』の画像資料を閲覧することができます。(※「出版物及び映像への利用(写真掲載・翻刻など)については、図書寮文庫出納係への申請が必要」とのことなので、リンク先より直接サイトをご覧ください。)

 画像資料のp33/63をご覧ください。右から6行目の「倭國在高驪東南大海中丗修貢職」から倭人伝の内容が始まり、p35/63の右行目までに記載されています。 

 ウエブサイト『古事記』(seisaku.bz)「古事記、全文検索」において、古事記の原文を閲覧することができます。

 ウエブサイト『日本書紀』(seisaku.bz)「日本書紀、全文検索」において、日本書紀の原文を閲覧することができます。

(2)『宋書』と『古事記』の記載に基づく年代の対査表を再確認

 『宋書』と『古事記』の記載に基づく年代の対査表を再度確認しましょう。421年と425年における在任期間を見ると、仁徳天皇の時代であったことがわかります。しかし、ここで『宋書』における重要な記述を思い出してください。「讃死弟珍立遣使貢獻・・・(讃が死ぬと、弟の珍が立ち、使者を派遣して貢ぎ物を献上し、・・・)」ということで、「讃」と「珍」は兄弟であると書かれています。つまり、「讃」が仁徳天皇ではなく、履中天皇であると仮定すると、『宋書』のこの記述と一致します。確かに『古事記』の記述によれば、履中天皇が64歳で崩御された後に、弟の反正天皇が即位されています。

『宋書』と『古事記』の対査(410-437年)

(3)(仮説)「讃は履中天皇」に関する考察

 『古事記』の記述によれば、421年は仁徳天皇の在任期間中でしたが、ご年齢は77歳、そして425年では、81歳とかなりのご高齢でした。したがって、息子(のちの履中天皇)が当時父親に代わって政務を担っていたと十分考えられます。そうした中、中国においては、混乱が続く東晋において実権を掌握した劉裕が420年(永初元年)、東晋最後の皇帝恭帝から禅譲されて即位し、宋を建国しました。当時の倭国は、朝鮮での覇権争いの中、その立場を優位にするため、新たに安定した王朝が誕生したことを見逃さず、直ちに南朝「宋」に対し、朝貢を開始しますが、その記録が421年(永初2年)の讃からの朝貢として記録されています。

 当時、皇太子であった履中天皇が仁徳天皇に代わって朝貢を行っていたと考えると、421年と425年の「讃」に関する記述に倭国王としての記載がないのは当然であり、そして、その後に、皇帝に朝貢し、倭国王の称号をさずけられた「珍」が「讃」の弟であるという記述にも合致します。

 したがって、倭の五王のうち「讃は履中天皇であった」という仮説を立てることで、『宋書』と『古事記』の記載における整合性がすべて確保されることがわかりました。以上のことから、倭の五王のうち「讃は履中天皇、珍は反正天皇」として結論づけることができます。

  • 「讃」は、第17代履中天皇。
  • 「珍」は、第18代反正天皇。

 さらに、「倭の五王❷」において、済、興及び武の3名の比定を行いました。

  • 「済」は、第19代允恭天皇。
  • 「興」は、第20代安康天皇。
  • 「武」は、第21代雄略天皇。

 これで「倭の五王」の5名について、すべて比定することができました。

 

2.まとめ

 420年、中国においては、各地での戦乱などにより、当時、中国大陸の南方を支配下においていた東晋の弱体化が進む中、実権を掌握した劉裕が東晋の最後の皇帝から禅譲され、南朝「宋」を建国しました。

 倭国は、朝鮮半島における利権争いを展開する中、中国において新たに安定した王朝が整理したことに注目し、この利権争いを有利に進めるために、新王朝の中国皇帝に対し、直ちに朝貢を開始しました。421年、「讃」による最初の朝貢が記録され、続いて、425年にも「讃」は朝貢しています。

 『日本書紀』の天皇在位期間については、「日本古代史」における『記紀』に見る天皇没年の違いにおいて掲載されている分析チャート(下図参照)を見ると明らかなように、初代神武天皇から始まる神話の時代を経て、第16代仁徳天皇に至るまでの期間、歴代天皇の寿命があえて長く記録されていることがわかります。「日本古代史」様、素晴らしい分析チャートのご発表、有難うございます。この場をお借りして御礼申し上げます。

 こうした『日本書紀』の記述は、国家の歴史を古く見せるためや、天皇の権威を高めるために、神話の世界における歴代天皇のほか、実在された方についても個性的で有力であった古代天皇の寿命をあえて長く書いたと考えられます。

(出典)「日本古代史」『記紀』に見る天皇没年の違いより

 また、『古事記』においても15名の天皇については、崩御干支が記載されていることに注目すると、上図の分析チャートより、一般的に実在したとされる第10代崇神天皇から第19代允恭天皇までの期間、異なる傾向で記録されていることがわかります。このため、以下のとおり、『日本書紀』に基づく天皇在位期間と『宋書』倭国伝の記述において顕著な不一致が見られ、「倭の五王」とは誰かという謎を生む原因となっています。

(図)『日本書紀』に基づく天皇在位期間と『宋書』倭国伝の記述の不一致

 人間の寿命は、個々の健康状態やその時代の生活環境等によって大きく異なりますが、上述の分析チャートのように少し長いトレンドで追いかけると、急激な変化には正当な理由づけが困難であることから、『古事記』の崩御干支を採用した方が正しく検証ができる可能性が高いことが推察されます。

 本稿の(連載)においては、こうした観点に立ち、『宋書』と『古事記』の記述を対査し、詳細に検証を行い、それらの結果を考察することで、倭の五王に関する比定を進めました。以下の図がその検証結果をまとめたものです。『日本書紀』の記述は、『宋書』の記述と一致しませんでしたが、『宋書』と『古事記』の記述は、きちんとリンクしていること確認することができました。

 南朝「宋」が建国された420年から滅亡した479年までの間、第17代履中天皇が皇太子の時代に朝貢したことから始まり、代々の天皇が宋への朝貢を続け、緊密な関係を築こうとしていたことがわかりました。

  • 「讃」は、第17代履中天皇。
  • 「珍」は、第18代反正天皇。
  • 「済」は、第19代允恭天皇。
  • 「興」は、第20代安康天皇。
  • 「武」は、第21代雄略天皇。
ゴーヤン
ゴーヤン

皆さま、《連載》「倭の五王」はいかがでしたか。国家の歴史を古く見せるためや、天皇の権威を高めるために、あえて古代天皇の寿命を長く記載している『日本書紀』の記録に基づくと『宋書』に登場する年号と全く一致しなかったのですが、信ぴょう性が高いと思われる『古事記』の崩御干支に着目し、『宋書』と『古事記』の対査を行ったところ、「倭の五王」がどの天皇に対応しているのかについて、明らかにすることができました。また、「倭の五王」の比定作業を通して、西暦何年の出来事であったのかを明確にできたことで、当時の日本と中国における歴史的背景もクリアーに解明できました。4回にわたる連載にお付き合いいただき、誠に有難うございました!心よりお礼申し上げます。

 

【参考文献】

【広告】RAKUTEN

【広告】U-NEXT


【広告】アソビュー