短編歴史物エッセイ

邪馬台国の場所を探る❶

2024年4月8日

【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
【論文】『邪馬壹國の場所を探る』

令和6年12月4日、神部龍章は学術論文『邪馬台国の場所を探る』を発表。邪馬壹國は、鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけて存在したと結論。最も有力な候補地は、宮崎県の西都原古墳群あたりと推定。「科学的根拠」から迫るアプローチと「文献解読」から迫るアプローチを重ね合わせることで邪馬壹國の場所の特定が完成。

倭の五王❸『古事記』の解読による検証
倭の五王❸『古事記』の解読による検証

『古事記』の解読による検証。宮内庁ホームページ「天皇系図」の古代歴代天皇の在位期間は、基本的に日本書紀の記述に基づいていますが、『宋書』倭国伝の解読による検証でご説明したとおり、これらは倭の五王に関する記録と全く一致しません。そこで、『古事記』に着目し、詳しく記述内容を紹介しつつ、『宋書』との対査を試みます。

倭の五王❷『宋書』の解読による検証!
倭の五王❷『宋書』の解読による検証!

倭の五王のうち、第19代允恭天皇が「済」、第20代安康天皇が「興」、第21代雄略天皇が「武」である。中国古代史書『宋書』の中に「夷蛮伝」があり「倭国伝」はその一部。主な内容は宋朝に対する倭国王の朝貢と任官。倭の五王が朝鮮半島の覇権を視野に入れ、頻繁に宋朝に朝貢し、皇帝から任官されている様子が記載されている。

倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!
倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!

『宋書』に登場する倭国の5代の王は、「讃」「珍」「済」「興」「武」という名前で登場。日本古代の歴代天皇を指しますが、具体的に「どなたか?」は所説あります。本連載では、「宋書」の原文を忠実に読み、歴史的背景を整理しながら、倭の五王の謎に迫り、様々な観点から古代日本の年号が西暦何年なのかを解明して参ります。

邪馬台国の場所を探る❺(最終回)
邪馬台国の場所を探る❺(最終回)

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、大変お待たせしました。女王卑弥呼がいた邪馬台国、その女王国に従う国々を監察する伊都國、そして倭国の規模、さらに、女王国の南方に位置し、敵対する狗奴國の位置関係を作図することで明らかにいたします。

邪馬台国の場所を探る❹
邪馬台国の場所を探る❹

『魏志倭人伝』に詳細に記載されている倭人の生活習慣や倭国の自然、そして諸国を観察する様子に触れた後、いよいよ卑弥呼が登場。親魏倭王・卑彌呼への「みことのり」、下賜された品々とそれらの意義、正始元年以降の出来事を経て、正始8年(西暦247年)卑弥呼が死亡します。そして、最後は彼女の死後の様子が描かれています。

邪馬台国の場所を探る❸
邪馬台国の場所を探る❸

『魏志倭人伝』の内容を吟味するには、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえる必要があります。ある一節の中で「邪馬台国」の場所を書き表していたのです。これを読み解くには、きちんと中国古代の歴史故事を踏まえつつ、後漢の時代には確立していた「周碑算経」の中に登場する「一寸千里法」を使えば解決できるものだったのです。

邪馬台国の場所を探る❷
邪馬台国の場所を探る❷

「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。」女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。原文から謎を解く。作者の意図を読むことが肝要。すぐには行くことができない遠く離れたところにある国々というのは女王国に属する国々ではない。

邪馬台国の場所を探る❶
邪馬台国の場所を探る❶

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が伝えたかった事実を解明し、邪馬台国の場所の謎に迫ります。後漢の時代にすでに完成していた「周碑算経」という朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書の原文が示す方法「1寸千里法」等を用い、魏志倭人伝の距離・方位を正確に検証し、邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチ!

女性天皇と女系天皇【後編】
女性天皇と女系天皇【後編】

「女系天皇」とは、母親が天皇家の血筋で父親が他家の血筋の方が天皇に即位した場合を意味します。初代の神武天皇から現在の今上天皇まで126代の天皇が即位され、全員「男系天皇」ですが、第29代欽明天皇は、母親から仁徳天皇以降のお血筋を受け継ぐことで、当時の社会においてもその正当性が受け入れられたという歴史的事実等を解説!

女性天皇と女系天皇【前編】
女性天皇と女系天皇【前編】

女性天皇と女系天皇、一字違うだけであるが意味は全く違う。歴史上、女性天皇は8名の方がいらっしゃった。現在の皇室典範では男系の男子が皇位を継承することが定められているが、これは歴史上の事実が軽視されている。過去の女性天皇がどのような経緯で即位されたのか、果たされたお役目は何かなどについて詳しく解説。

足利義満と勘合貿易
足利義満と勘合貿易

~明国皇帝に冊封を申し出た偉人~
1401年、義満は「日本国准三后源道義」と名乗り、明国に使節を派遣する。明国の第二代皇帝・建文帝から日本国君主として認められる。翌年1402年、明国から詔書には「日本国王源道義」と記され、また、義満自身も「日本国王臣源」として返書を送り明の冊封を受けた。冊封体制の成立である。日本と明国との間で勘合貿易が始まる。

阿部正弘と井伊直弼
阿部正弘と井伊直弼

~二人の米国人に対抗した日本の偉人たち~
老中阿部正弘は、ペリー来航から日米和親条約締結に至る歴史的難局を乗り切った。若くして難局を乗り切った歴史上の偉人だ。ペリーは浦賀の前に琉球王国を訪問していた。大老井伊直弼は、安政の大獄の印象が強い人物であるが、「横浜開港」に貢献した偉人だ。ハリス総領事の強力な主張に対し、既成事実を積み上げて押し切った 。

琉球王朝の歴史
琉球王朝の歴史

~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~
沖縄では「万国津梁の精神」という言葉がある。万国津梁之鐘にその記録が残ることに由来する。万国津梁とは「世界の架け橋」という意味だ。沖縄の発展や未来展望を語る際には欠かせない。琉球王朝は、国際貿易で大繁栄を極めた。その鍵は明国の朝貢貿易と冊封体制にある。なぜ小さな島の王朝が大繁栄したのか、その謎に迫る 。

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論文『邪馬壹國の場所を探る』

高度な天文測量学「1寸千里法」

1.邪馬台国と魏志倭人伝

(1)魏志倭人伝

 「邪馬台国」の卑弥呼については、皆さまもよくご存じのとおり、古代日本において、女王として邪馬台国を統治した方ですが、実際に日本国内に存在したことが「魏志倭人伝」という中国の書物に記録されています。

 この「魏志倭人伝」という書物は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻に含まれる一節で、作者は「陳寿(ちん じゅ)」という方です。「蜀」や「西晋」という国の官僚でした。魏志倭人伝は、日本に関する初めてのまとまった記事であり、日本にいた民族・住民である「倭人」の習俗や地理について詳しく記述されていますので、当時の倭人の風習や動植物の様子を知る史料となっています。また、邪馬台国を中心とした国の存在や、卑弥呼の外交活動なども記されています。

 邪馬台国と言えば、「邪馬台国は日本のどこにあったのか?」というテーマについて、現在も諸説が研究・発表されており、皆さまよくご承知のとおり、大別して「九州説」と「畿内説」に別れているほか、九州説に着目しても、存在したとされる場所は、多岐にわたっています。

 多くの人がその解明に取り組んでいるにもかかわらず、まだまだ謎が多く、歴史のロマンを大いに感じる魅力的なテーマです。そこで、独自の視点から短編歴史物エッセイに取り組んでいる筆者としては、今回、「独自の視点」というものを大切にしつつ、詳細な調査結果を読者の皆さまにわかりやすく紹介しながら、タイトルの『邪馬台国の場所を探る~「魏志倭人伝」の原文から謎の解明に挑戦~』を進めさせていただきたいと存じます。

(2)原文から作者の意図を解読

 筆者は、ウエブサイト上での自己紹介のとおり、エッセイ作家として活動しているほかに、教育コンサルタントとして、独自の勉強法を提唱し、中国語、英語、RPA、日本語の解説にも力を入れて取り組んでおりますので、古代に書かれた中国語をじっくりと味わいながら、中国語の解説を進めるとともに、作者の意図を明らかにして参りたいと思います。

 さて、諸説の中には、「魏志倭人伝の記載には方角に誤りがある」などのように当時まとめられた内容に疑問を持つお声のほか、中には、「後世に改ざんされた」などという大胆な仮説もございます。これらをよく読んでいるとある共通点があります。それは、古代遺跡などの国内で得られた情報等や各種の状況から推察し、その正しさを証するために「魏志倭人伝」の記載内容に一定の条件やコメントをつけられた結果、こうしたお考えに至っていると推察されるところです。

 しかしながら、私は、今回、独自の視点として、「原文をできるだけ忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫る」というアプローチとさせていただきます。したがって、「東南」と書かれていれば、方向は「東南」に限定して内容を整理し、「南」とあれば、忠実に南に向かうアプローチとすることで何が見えてくるのかを検証したいと考えています。

 さらに、中国の歴史は、非常に長い訳ですが、史書を書く方々は、歴史書に記された事項を隅々まで研究した上で、書き物を進めていますので、作者の意図を知るには、そうした歴史的な背景をしっかりと確認しながら進めることが重要だと考えます。

 

2.検証を進める上での大前提

(1)時代背景の確認

 検証を進める上で、時代背景の確認は最も重要です。つまり、「西暦に置き換えると何年の話が書かれているのか?」「その時代の測量技術はどのようなものか?」といった基礎的なところは、検証を進める上での「大前提」となりますので、極めて重要です。

 魏志倭人伝の原文において、邪馬台国の卑弥呼が魏王に使節を送ったのが、「景初二年六月」と明記されています。この時代の中国の元号は、正確に西暦に置き換えられていますので、238年6月です。つまり、3世紀中頃のお話だということです。

 三国志のストーリーで皆さまご承知のとおり、後漢の末期に皇帝の力が急速に衰え、各地で群雄割拠する時代を経て、曹操が中国北部をまとめ、息子の曹丕のときに、漢王朝から皇帝の位が禅譲される形で、初代の魏の皇帝となります。それ以降、中国東南部の呉、西南部の蜀がともに皇帝であると宣言し、三国時代を迎えます。

 邪馬台国の卑弥呼が朝貢のために使節を送った238年は、曹丕の息子の第2代皇帝曹叡の時代です。したがって、距離の測定方法などは、漢王朝(後漢)の時代の方式が受け継がれていたと考えられます。

(2)後漢時代に成立した天文学・測量学の教養書「周碑算経」

 ➀ 1寸千里法

 漢王朝(後漢)時代には、周碑算経」日本語読み:しゅうひさんけい、中国語ピンイン:zhōu bì suàn jīng)と呼ばれる天文学・測量学の教養書がありました。3世紀においては、日本では邪馬台国の卑弥呼の時代に代表されるように弥生時代末期のため、高度な文明が進展していませんでした。このため、古代日本のことだけを研究していると、あたかも世界中がすべて弥生時代末期の状況にあったような「ある種の錯覚」に陥るかもしれませんが、文明が進んでいるところでは、それらの先進性は隔絶していました。

 例えば、有名な「ピタゴラスの定理」は、古代ギリシャの数学者であったピタゴラス(紀元前582年 - 紀元前496年)の名前が付いていますが、実際は、彼がいた紀元前500年よりもさらに500年くらい前のバビロニアの時代に、バビロニア数学としてすでに知られていたとされています。

 さて、「周碑算経」の中に「1寸千里法」という太陽の南中高度を測定することで、距離を割り出す方法がすでに掲載されています。これについては、東京都立大学名誉教授の野上道男氏が「古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置」の中で次のとおり説明されています。

天文測量法としての「1 寸千里法」『周碑算経』は数学書『九章算術』より更に古く、周代(紀元前11 世紀~)から漢代(BC206~AD220年)を通じて書き継がれ、後漢代(AD25~220)には既に成立していた.『周碑算経』は朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書であったとされている. 『周碑算経』には「1 寸千里法」という最古の天文測量法が記述されている.夏至の太陽南中時に、周の陽城(洛陽)付近の南北2地点で8尺の棒の影の長さを測り、その日影長に1寸の差があるとき、2地点間の南北距離成分を千里とする、というものである.これが「1寸千里法」の名前の由来となっている.この測量法の原理を紹介し有効性を検討する.80寸の棒の日影長が16寸とされる陽城の緯度は「34.75N」であり、それは洛陽老城区のそれと合っている.また洛陽から棒の日影が消える北回帰線(23.44N)までを16000 里としている.地「球」という概念はないが、この距離16000里は緯度差11.31度に相当する.

(出典)古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置(東京地学協会伊能忠敬記念講演会2015.11.28)野上道男(東京都立大学名誉教授)

 漢王朝の時代には、すでに太陽の南中高度の違いを利用した距離測定方法が確立していました。太陽が真南に来たときに「南中」したといいますが、そのときの太陽の高度が「南中高度」です。ここで、地面に棒を垂直に立ててその陰の長さを図ると、緯度によって棒の長さが違うことから、その角度の違いと南北の距離との関係を使って、距離を測定していました。

 そこで、「周碑算経」の原文にて、どのように記載されているのかを調べてみました。

陈子说之曰:夏至南万六千里,冬至南十三万五千里,日中立竿测影。此一者天道之数。周髀长八尺,夏至之日晷一尺六寸。髀者,股也。正晷者,句也。正南千里,句一尺五寸。正北千里,句一尺七寸。

(出典)中国哲学书电子化计划《周髀算经》

 結構、重要で面白いことをわかりやすく説明しています。日本語に翻訳すると次のような感じです。

 陳子先生曰く、「夏至の日に、ここから南に1万6,000里、冬至の日に、ここから南に13万5,000里行って、日中に竿を立て影を測ります。これらは天道の値です。長さ8尺 (約 2.4m) の棒(周髀)では、夏至の日の南中(太陽が真南にくるとき)に1尺6寸の影ができる。周髀が「股」(直角三角形の直角を構成する長いほう)、影が「句」(直角三角形の直角を構成する短いほう)です。ここから真南に千里行くと、影の長さが1尺5寸に、ここから真北に行くと、影の長さが1尺7寸になります。」

 ➁ ピタゴラスの定理の活用
(図1)句股圆方图

 「(図1)句股圆方图」は、「周碑算経」に描かれており、底辺「3」、高さ「4」(または底辺「4」、高さ「3」、中国式は、股(長いほう)「4」、鉤(短いほう)「3」)の直角三角形の斜辺の長さが「5」であることを説明しています。(注:実際の原画には版権が設定されていますので、この図は筆者が作った類似の図です。)

 この図においては、「3×4」の直角三角形(面積「6」)が4つ(青い部分)に囲まれた中の正方形(斜めに傾いた白い正方形)の面積が「3×4」の直角三角形(面積「6」)が4つ(青い部分)に1を加えた値、つまり、6×4+1=25 となるので、斜辺の長さが「5」であることを示しています。

 ピタゴラスの定理は、直角三角形を構成する底辺(a)と高さ(b)をそれぞれ2乗して足し合わせると、その和は、斜辺(c)の2乗の値と常に一致するというものですが、特に、3の2乗「9」+4の2乗「16」は5の2乗「25」になる、直角三角形は有名です。

 「周碑算経」においては、こうした直角三角形を活用し、南中高度の違いで、垂直の直線距離を推定し、そこから斜辺を構成する2点間の距離を割り出すという技法へと応用されています。 

(3)太陽の南中高度の違いを利用した測量技術

 ➀ 測定地点の確認

 「(図2)棒と影の長さから南中高度を測定」のとおり、夏至の日の南中高度(太陽が真南に来たときの角度)を測ることができます。そこで、三角関数を用いて角度を計算し、どこで測ったのかを確かめてみましょう。

 8:1.6 の比から三角関数の計算式を用いて南中高度を計算すると78.69度であることがわかります。地球は23.44度傾斜していますので、これから緯度を計算すると、測定した地点は「北緯34.75度」です。

 当時の魏国の首都「洛陽」は、現在の河南省の西部にある洛陽と同じ場所にあり、北緯33°35′から35°05′に位置するので、およそ洛陽中心部あたりで測定したことがわかります。したがって、測定場所は「洛陽」で間違いありません。

(図2)棒と影の長さから南中高度を測定
 ➁ 一里の距離の確認

 次に、最初の測定地点から真南一千里のところで棒の影を測定すると、1尺5寸になると言っていますので、これを基にして、一里が現在の単位でどのくらいになるのかを確かめましょう。

 同様に、三角関数を用いて南中高度を計算し、そこから緯度を求めると、北緯34.06度の地点であることがわかります。現在、緯度1度の距離は111.11km(90度で1万km)であることがわかっていますので、一千里は(34.75-34.06)×111.11=76.67kmとなります。したがって、一里=76.67mということです。

 次に、夏至の日の南中高度が90度、つまり真上に太陽があるので影がゼロとなる地点(北回帰線)までの距離が文献では、1万6千里であると言っていますので、これについて検証してみましょう。

 北回帰線の緯度は北緯23.44度なので、洛陽の当初の測定地点から北回帰線までの距離は(34.75-23.44)×111.11=1256.65kmとなります。一千里が76.67kmなので、1256.65/76.67×1,000=16,390里となります。ほぼ1万6千里ですね。すばらしいですね。

 ③ 本稿における距離の単位

 「魏志倭人伝」の原文から謎を解明するには、「一里」が現在の単位でどのくらいの距離になるのかは極めて重要です。上述のとおり、「周碑算経」は朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書であったとされていましたので、当然のことですが、魏国の倭国への使節団もこれを知っており、用いていたと考えられます。

 また、倭国に行くには、何度も海を渡る旅程を経る必要があるため、歩数を基準とするような測定方法では対応できないわけですが、この1寸千里法であれば、どこでも南中高度を測定し、距離を割り出すことが可能です。

 したがって、本稿においては、「周碑算経」に基づく距離測定により、

◎「一里」= 76.67m

◎「千里」= 76.67km

として、「魏志倭人伝」の原文から謎を解明し、邪馬台国の場所を探って参ります。

 ちなみに、疑い深い方々は、「これは夏至の日に計測しないと使えないではないか!」とおっしゃるかもしれませんが、安心してください。「周碑算経」には次のような記述もあります。

冬至晷長一丈三尺五寸,小寒丈二尺五寸,大寒丈一尺五寸一分,立春丈五寸二分,雨水九尺五寸二分,啟蟄八尺五寸四分,春分七尺五寸五分,清明六尺五寸五分,穀雨五尺五寸六分,立夏四尺五寸七分,小滿三尺五寸八分,芒種二尺五寸九分,夏至一尺六寸,小暑二尺五寸九分,大暑二尺五寸八分,立秋四尺五寸七分,處暑五尺五寸六分,白露六尺五寸五分,秋分七尺五寸五分,寒露八尺五寸四分,霜降九尺五寸三分,立冬丈五寸二分,小雪丈一尺五寸一分,大雪丈二尺五寸。

(出典)中国哲学书电子化计划《周髀算经》

 冬至の日から順に二十四節季ごとに同様に南中時の影の長さを測定した結果が記されています。つまり、一年中、距離の測定が可能となるように太陽軌道の移動に応じた変化を把握していた訳です。まあ、「周碑算経」が朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書であったと言われていますので、こうしたことは把握されていて当然のことだと思います。

(3)方位について

 「周碑算経」においては、上述で紹介した「1寸千里法」や「ピタゴラスの定理の応用」のほかに、太陽の日周運動の軌道や北極を中心とした同心円の大きさが季節により変化すること(注:当時は地軸のずれにより北極星が北極を指し示していなかったため)などについても詳しく解説が行われ、「蓋天説(がいてんせつ)」と呼ばれる古代中国天文学における天空の構造論を説明するために編纂された天文学のテキストと考えられています。数学以上に中国の暦学・天文学の発展に対して貢献したとされています。

 「蓋天説」は、中国式の天動説をまとめたもので、地面は平地で天体が動くことを基本としており、「周碑算経」はそれを体系的に説明しています。

 したがって、先ほど、独自の視点として、原文をできるだけ忠実に読み、邪馬台国の場所の謎に迫るというアプローチとして、「東南」と書かれていれば、方向は「東南」に限定して内容を整理し、「南」とあれば、忠実に南に向かうアプローチとすることで何が見えてくるのかを検証したいと考えていますと申し上げましたが、そもそもこうした知識がある人たちが倭国に渡った途端に方角を誤るなどということはありえないので、この前提は無理のない、自然な考え方であると思います

(4)面積の表記

 魏志倭人伝の原文に「方可三百里」のように面積を示していると思われる表現が出てきます。中国の歴史をたどると、もともと「里」という単位は面積を表すものとして使われていました。

 例えば、「方可三百里」は記述から面積を示すことは明らかですが、その面積は、300里四方ということを示しています。つまり、面積が300里というのは、一片が300里の正方形の面積(つまり300里の2乗)を示していました。その後、単に300里と距離を表すことにも使われるようになったのです。距離を示すのか、面積を示すのかについては、「方可三百里」のように文脈でわかります。

 ちなみに、原文中に対馬への旅程や対馬の様子を示すところがありますが、そこで対馬の面積が「方可四百餘里」だと書かれています。つまり、対馬の面積は、(400里+α)の2乗に相当すると言っています。現在の値に換算すると、「方可四百里」というのは、(400/1000×70km)の2乗なので、784平方kmとなりますが、現在知られている対馬の面積が709平方kmなので、かなり近い値を言いあてていると言えます。

 

3.帯方郡から対馬へ

(1)帯方郡

 皆さま、お待たせしました。ここからは、魏志倭人伝の原文から邪馬台国の場所の謎を探ってまいります。

倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(陳壽)底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店(1951(昭和26)年11月5日第1刷発行、1983(昭和58)年9月10日第42刷発行)、底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本

 「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。」

 倭国の人(日本人)は、帯方(韓国・ソウル周辺)の東南方向の海にある山や島々を国土としていました。

 「帯方」とは当時の「帯方郡」のことを表しています。漢王朝の勢力が衰える後漢の末、189年公孫度は、中国東北部の遼東太守となりますが、その後、朝廷の意向とは関係なく、自らの勢力を拡大し、朝鮮半島へと進出していき、「楽浪郡」(現在の北朝鮮・平壌周辺)を支配下におきます。そして、その息子の公孫康は、さらに勢力を強め、楽浪郡の南方に「帯方郡」(楽浪郡から現在の韓国・ソウル周辺までのエリア)を設置しました。

 「帯方郡」のあった場所については、韓国でも諸説ある様子で、大別すると、群の中心が現在の38度線より北側(平壌から南の北朝鮮の領土)か、ソウルの近辺かというような感じです。

 「舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國。」

 昔は百余国あり、漢の時代には、朝見する者がいました。今は、交流可能な国は三十国です。

 「朝見」とは、中国皇帝に朝貢(諸侯や外国の使いが来朝して、朝廷に貢物を差し出すこと)するために、使節を送り、皇帝に謁見することです。

 また、朝貢について理解するためには、中国の「冊封体制」に関する知識が肝要ですが、詳しくは、「足利義満と勘合貿易~明国皇帝に冊封を申し出た偉人~」及び「琉球王朝の歴史~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~」にて詳しく解説していますので、こちらも合わせてご覧ください。

 邪馬台国の卑弥呼に関する資料や記事を調べていると、「卑弥呼は外交的な感覚に優れており、中国の皇帝に朝貢した」などという解釈なども散見されます。しかしながら、この魏志倭人伝の記述からわかるとおり、「漢王朝の時代には、倭には100以上の国があり、その中には朝貢するものがすでにいたが、今では交流可能な国(つまり、皇帝への朝貢があり、魏国からも使節が送られている国)が30か国ある」と言っていますので、卑弥呼だけに特別な外交的な感覚があったのではなく、小さな国々も多くの国々が朝貢していたので、割と当たり前の行動であったということがわかります。

(2)狗邪韓國

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。


(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 帯方郡から倭国に至るには、沿岸に沿って海路を行き、韓国を経て、南へ行ったり東へ行ったりして、倭国の北岸にある「狗邪韓国」(くやかんこく、朝鮮半島南岸)に到着します。七千余里あります。

 「七千餘里」については、上述の大前提に基づくと、一千里が76.67kmなので、530km以上となります。この距離については、帯方郡から狗邪韓国までの直線距離とする考え方と沿岸に沿って海路を進んだ距離とする考え方があります。

 「狗邪韓国」が具体的には韓国南岸のどこを指すのかについては、わかりませんが、上述で「1寸千里法」を説明する際に、計測の起点となった洛陽の北緯が34.75度である旨を説明しましたが、現在の地図をよく見ると、たまたま、韓国南岸の北緯がこの値に近いところにありますので、現在の地図上で作図してみることにしました。

(図3)狗邪韓国(北緯34.75度)から帯方郡までの距離の検証

 そうすると、対馬に最も近い現在のコジャ市あたりではないかと推測されます。そこで直角二等辺三角形を使って、緯度の違いを計算してみましょう。直角二等辺三角形の場合、

 斜辺:高さ = √2:1

であるので、斜辺が7,000里(図3の赤い逆三角形で示した2点間の距離)だとすると、三角形の高さは概ね5,000里ということになります。先ほどの1寸千里法で、洛陽の基準点での影の長さが16寸、5千里北へ進むので影の長さは21寸。ここから南中高度の計算を経て、緯度を計算すると、北緯38.15度になります。正に上述で帯方郡について説明したあたりです。

 原文では「從郡至倭、循海岸水行」と言ってますので、帯方郡の海岸付近から出発したとすると、結構、綺麗な形で、「到其北岸狗邪韓國七千餘里」を示すことができました。

 したがって、「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。」は、「帯方郡から狗邪韓國までの直線距離のことを述べている」ことになります。

 「帯方郡から倭国に至るには、沿岸に沿って海路を行き、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、倭国の北岸にある「狗邪韓国」(くやかんこく、朝鮮半島南岸)に到着します。七千余里あります。」と言っていますので、現在の地図を見ても明らかなとおり、複雑な海岸線に沿って、沿岸部を進んでいったと思います。すなわち、その行程の中で、詳細に複雑な海岸線での距離を測定しながら進んでいたとは考えにくいことから、こうした観点からみても、直線距離を示していると結論付けても問題ないと考えます。 

(3)對馬國

始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(詳細同上)

 「始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、」

 一千里を超えて渡り、対馬国に到着、その長官は卑狗と言い、副官は卑奴母離と言います。

 

 

(図4)コジャ市から対馬までの距離

 「(図4)コジャ市から対馬までの距離」において、緑色の円は対馬から一千里(約70km)を示しています。先ほどの「(図3)狗邪韓国(北緯34.75度)から帯方郡までの距離の検証」において、北緯34.75度上にある韓国南岸のうち、対馬に最も近い「コジャ市」と仮定して作図を行ったわけですが、ここでの記述についてもぴったりと当てはまりますので、この仮定は正しかったと言えます。

 原文では「始度一海千餘里、至對馬國」として進む方角については何も限定していませんので、ここでも、狗邪韓國から對馬國までの距離が一千里であることを確認しましたので、原文の記述に忠実に旅程が進んでいると言えます。

 「所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。」は、彼らが住む絶島(対馬は断崖絶壁が多い島)は 面積400平方里を超えており、土地は急峻な山が多く、深い森がたくさんあります。道路は鹿の通り道のようで、村は一千戸を超えます。肥沃な土地はありません。彼らは海産物を食べて暮らし、船に乗って南へ北へと交易を行っています。

 「乘船南北市糴」については、北は狗邪韓国、南は瀚海(一大國)または九州北岸を示すものと考えられます。

 対馬の面積については、上述の「(4)面積の表記」のところで説明したとおり、かなり正確に把握していたと思われます。

 さて、邪馬台国への旅程は、まだ始まったばかりですが、この続きは次回の「邪馬台国の場所を探る【2】」にてご説明いたします。

ゴーヤン
ゴーヤン

皆さま、「邪馬台国の場所を探る❶」はいかがでしたか。次回は、對馬國から次の瀚海(一大國)へと向かうところからです。「邪馬台国の場所を探る❷」を引き続きご覧ください。

 

【参考文献】

↓ ↓ ↓ 神部龍章の学術論文はこちら ↓ ↓ ↓

論文『邪馬壹國の場所を探る』

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