長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫る!
1.はじめに
皆さま、こんにちは。神部龍章です。短編歴史物エッセイ(連載)「邪馬台国の場所を探る」はいかがでしたでしょうか?古代中国の歴史文献の解読と当時の天文学・測量学の技術を組み合わせた新アプローチによる謎の解明は、お楽しみいただけましたでしょうか?
さて、今回から新連載「倭の五王」を開始いたします。ところで、「倭の五王って誰?」と思われた方々も多いと思います。これは、中国の歴史書『宋書』(そうしょ)という書物に登場する倭国(日本)の5人の王(天皇)のことを指します。宋書は、中国南朝の宋の時代(420~479年)の歴史を記録した正史です。南朝宋の60年間の歴史が詳細に記述されており、特に同時代の資料が多く含まれているため、資料的価値が高いと言われています。南朝梁の沈約(しんやく)という方によって編纂され、全部で100巻に構成されてます。宋書の中では、日本に関する記述も含まれており、当時、倭の五王が中国の皇帝に朝貢していたことが記されています。「朝貢」とは、中国皇帝に対して、その諸侯や外国の使いが来朝し、朝廷に貢物を差し出すことですが、卑弥呼の時代にも活発に行われており、「邪馬台国の場所を探る❹」において、卑弥呼が「親魏倭王」のみことのりをくだされたといったお話も出てきました。
『宋書』に登場する倭国の5代の王は、「讃」、「珍」、「済」、「興」、「武」という名前で登場します。彼らが日本古代の歴代天皇を指すということは、定説となっていますが、「それぞれ、どの天皇を指すのでしょうか?」ということになると所説あります。本シリーズにおいては、『短編歴史物エッセイ作家と教育コンサルタントの観点から、「宋書」の原文を忠実に読み、歴史的背景を整理しながら、「倭の五王」の謎に迫って参ります』と本来は申し上げたいところですが、それでは「古代の天皇様のことはよくわからないので、誰でもいいです~」と感じられる読者の方々も多いと思います。そこで、「(連載)倭の五王」の本当の目的は、『宋書に基づき倭の五王がどの天皇であるのかを特定すると、古代日本の歴史についても西暦何年の出来事なのかがはっきり見えて来るかもしれません。例えば、卑弥呼の時代には、大和朝廷があったのか?そのとき畿内に天皇はいらっしゃったのか?といったことが未だ判然としないのですが、これらの謎を解明することを目指すために「倭の五王」の検証に挑戦します!」というものです。宋書における「倭の五王」の解明を通して、古代日本の西暦を解明を試みるという新アプローチを存分にお楽しみください!
第1回のテーマは、「長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫る!」です。この謎の解明は、「倭の五王は誰か?」というテーマの解明には欠かせません。
2.古代歴代天皇の在位年数等から見た長寿命の実態
(1)宮内庁のホームページ「天皇系図」
宮内庁ホームページ「天皇系図」に歴代の天皇に関する詳細な系図が掲載されています。本連載においても、この資料を活用させていただきながら、長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫って参りたいと思います。まずは、この天皇系図に基づき、初代神武天皇から第33代推古天皇までの在位期間と在位年数を整理してみました。なお、初の女性天皇である推古天皇については、「女性天皇と女系天皇【前編】」で詳しく紹介しておりますので、ご関心のある方は、こちらも是非ごらんくださいませ。
さて、初代神武天皇から第9代の開化天皇までは、神話として登場される天皇で、実在されていたのは、第10代崇神天皇からではないかと言われています。確かに、紀元前の歴代天皇の系図は、親から子、子から孫へと一直線に受け継がれていると書かれていますが、実際は、そのあとの系図に出てくるように、兄の後を弟が受け継いだり、ときには、お孫さんが受け継いだりしていますので、そのように考えると、最初の方々は神話の世界なんだろうなあと感じるところです。
なお、ご参考までに、この表の中で、受け継がれ方が他の方々とまったく違う方がおひとりいらっしゃいます。第26代継体天皇です。継体天皇は、第15代応神天皇の5代孫にあたる方で、第16代仁徳天皇以降の直系のお血筋ではなく、とても遠いご親戚の方から選ばれた方です。継体天皇について詳しくは、「女性天皇と女系天皇【後編】」で詳しく紹介しておりますので、ご関心のある方は、こちらも是非ごらんくださいませ。
(2)古代歴代天皇の長寿命
第10代崇神天皇以降の在位年数をご覧いただくと、60年を超える方が何人もいらっしゃいます。最長は第11代垂仁天皇の99年間ですが、その息子さんの第12代景行天皇の在位年数が60年間、その息子さん(垂仁天皇のお孫さん)である第13代成務天皇の在位年数も60年間です。約220年間もの期間に、わずか3世代の天皇が統治されていたことになります。「そんなことがあり得るのか?」というと、常識的な人間の寿命で考えるとあり得ません。
さらに、不可思議なことは、まだまだあります。この天皇系図によれば、第15代応神天皇は、父親が第14代仲哀天皇、母親が神功(じんぐう)皇后ですが、仲哀天皇が西暦200年に没したときには、応神天皇が皇子として生まれたばかりでしたので、母親の神功皇后が摂政として統治し、皇后がお亡くなりになる西暦269年までの70年間続いたとされています。つまり、応神天皇は、70歳で即位され、110歳を超えて在位されていたことになりますが、本当にそうなのでしょうか?
ちなみに、「邪馬台国の場所を探る❹」において、邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の称号を得たのが西暦238年だったと「魏志倭人伝」に記載されている旨の説明をいたしました。こちらの年号は確かです。そうすると、この天皇系図によれば、神功皇后が摂政をされていた時期と重なります。そのため、江戸時代以降、「神功皇后が卑弥呼だった」と唱える説もございました。しかしながら、「邪馬台国の場所を探る❺」でご説明したとおり、魏志倭人伝の原文のみならず、関連する古代中国の文献をしっかり読み解き、その歴史的背景や当時の科学技術なども踏まえながら、忠実に検証を進めると「畿内説」は根拠が薄いこと、また、「邪馬台国の場所を探る❹」でご説明したとおり、魏志倭人伝には、卑彌呼が没したあと、次に男王が立ちますが、國中が従わず、互いに殺し合い、混乱しますが、卑弥呼の宗女の「壹與」という13歳の者が王になり、國中がついに定まりましたと記述されていますので、「神功皇后が卑弥呼だった」とする考え方には自ずと無理があります。
第16代仁徳天皇は、大阪府堺市にある巨大な前方後円墳で知られる「仁徳天皇陵」で有名な方ですが、天皇系図によれば、この方の在位年数も87年間とかなりの長期間であったことになります。
なお、ウエブサイト「古代史日和(【第2の謎】古代の天皇のお年(寿命、享年)はなぜ長いのか)」においては、古事記と日本書紀に基づき、古代歴代天皇の寿命の長さについて具体的に言及されていますので、ご参照くださいませ。
天皇名称 | 在位期間(西暦) | 在位年数 | |
初代 | 神武天皇 | 前660-前585 | 76年 |
第2代 | 綏靖天皇(神武天皇の子) | 前581-前549 | 33年 |
第3代 | 安寧天皇(綏靖天皇の子) | 前549-前511 | 39年 |
第4代 | 懿德天皇(安寧天皇の子) | 前510-前477 | 34年 |
第5代 | 孝昭天皇(懿德天皇の子) | 前475-前393 | 83年 |
第6代 | 孝安天皇(孝昭天皇の子) | 前392-前291 | 102年 |
第7代 | 孝霊天皇(孝安天皇の子) | 前290-前215 | 76年 |
第8代 | 孝元天皇(孝霊天皇の子) | 前214-前158 | 57年 |
第9代 | 開化天皇(孝元天皇の子) | 前158-前98 | 61年 |
第10代 | 崇神天皇(開化天皇の子) | 前97-前30 | 68年 |
第11代 | 垂仁天皇(崇神天皇の子) | 前29-70 | 99年 |
第12代 | 景行天皇(垂仁天皇の子、日本武尊の父) | 71-130 | 60年 |
第13代 | 成務天皇(景行天皇の子) | 131-190 | 60年 |
第14代 | 仲哀天皇(景行天皇の孫、日本武尊の子、応神天皇の父) | 192-200 | 9年 |
神功皇后(仲哀天皇の皇后、応神天皇の母) | 200-269 | 70年 | |
第15代 | 応神天皇(仲哀天皇の子) | 270-310 | 41年 |
第16代 | 仁徳天皇(応神天皇の子) | 313-399 | 87年 |
第17代 | 履中天皇(仁徳天皇の子) | 400-405 | 6年 |
第18代 | 反正天皇(仁徳天皇の子、履中天皇の弟) | 406-410 | 5年 |
第19代 | 允恭天皇(仁徳天皇の子、反正天皇の弟) | 412-453 | 42年 |
第20代 | 安康天皇(允恭天皇の子) | 453-456 | 4年 |
第21代 | 雄略天皇(允恭天皇の子、安康天皇の弟) | 456-479 | 24年 |
第22代 | 清寧天皇(雄略天皇の子) | 480-484 | 5年 |
第23代 | 顕宗天皇(履中天皇の孫、磐坂市辺押磐皇子の子) | 485-487 | 3年 |
第24代 | 仁賢天皇(履中天皇の孫、磐坂市辺押磐皇子の子、顕宗天皇の兄) | 488-498 | 11年 |
第25代 | 武烈天皇(仁賢天皇の子) | 498-506 | 9年 |
第26代 | 継体天皇(応神天皇の5代孫) | 507-531 | 25年 |
第27代 | 安閑天皇(継体天皇の子) | 531-535 | 5年 |
第28代 | 宣化天皇(継体天皇の子、安閑天皇の弟) | 535-539 | 5年 |
第29代 | 欽明天皇(継体天皇の子、仁賢天皇の孫) | 539-571 | 33年 |
第30代 | 敏達天皇(欽明天皇の子) | 572-585 | 14年 |
第31代 | 用明天皇(欽明天皇の子、敏達天皇の弟) | 585-587 | 3年 |
第32代 | 崇峻天皇(欽明天皇の子、用明天皇の弟) | 587-592 | 6年 |
第33代 | 推古天皇(欽明天皇の子、崇峻天皇の姉、初の女性天皇) | 592-626 | 35年 |
3.魏志倭人伝に記されたある事実
(1)「三国志」裴松之注
「邪馬台国の場所を探る❶」の冒頭で、「魏志倭人伝」という書物は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻に含まれる一節で、作者は「陳寿(ちん じゅ)」という方ですと紹介させていただきました。陳寿の記述は簡約をむねとしたため、極めて簡潔に書かれていたことから後世になり、南朝宋の時代において、「裴松之(はいしようし)(372‐451)」という学者さんが200種以上の史料を精査の上、事実を補うことに心がけ、注釈を書き込んだとされています。
魏志倭人伝の注釈の中に「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」(魏略によれば、その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す。)という記載があります。「魏略(ぎりゃく)」とは、中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書で、著者は魚豢(ぎょかん)という方です。この注釈は、魏略という史書に記載されたものから背景となる事実を補うために書き加えられたものです。
「正歳四節」というのは、四季をもって一年とするという意味で、「春耕し秋収穫するを計って年紀と為す」は、一年のサイクルは、「春耕」と「秋収穫」に基づく、つまり、「春耕」から始まって一年、「秋収穫」から始まって一年とするということで、邪馬台国の卑弥呼の時代(つまり3世紀の倭国)においては、中国での1年は、倭国では2年になると言っています。
宮内庁の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」において、『三国志』の画像資料を閲覧することができます。(※「出版物及び映像への利用(写真掲載・翻刻など)については、図書寮文庫出納係への申請が必要」とのことなので、リンク先より直接サイトをご覧ください。)
画像資料のp58/67をご覧ください。書籍の左端に確かに「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」と注釈が書かれていることがわかります。
其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒、(注釈:魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀)見大人所敬、但搏手以當跪拜、其人壽考、或百年、或八九十年。其俗國大人皆四五婦、下戸或二三婦、婦人不淫不妬忌、不盜竊、少諍訟、其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族、尊卑各有差序、足相臣服、收租賦、有邸閣、國國有市、交易有無、使大倭監之。
(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(陳壽)底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店(1951(昭和26)年11月5日第1刷発行、1983(昭和58)年9月10日第42刷発行)、底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本
・・・集会での振る舞いには、父子・男女の区別がありません。人々は酒が好きです。(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す。)敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝みます。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいます。・・・
「人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいます。」と出てきますが、注釈によって、中国での1年は、倭国では2年になると言っていますので、「人は長命であり、五十歳や四十五、四十歳の者もいます。」という意味だということを示しています。
(2)春秋二倍暦説
「中国での1年は、倭国では2年になる」という考え方は、一般に「春秋二倍暦説」として知られています。
古代の日本社会においては春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする説で、ヤマト王権の初期に在位したとされる天皇たちの不自然な長寿を説明する際にしばしば用いられる。
古くは明治時代にデンマーク人ウィリアム・ブラムセンが類似した説を唱えたほか、初期の天皇たち(特に第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの所謂欠史八代)の事績や実在性そのものが疑問視されるようになったのに対し、坂本太郎や鳥越憲三郎をはじめとする幾人かの日本人学者が『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることを論拠にこの説を展開した。
根拠薄弱で学説として広く支持されているとは言い難いももの、ある程度の説得力がある事から古代史を語る上ではしばしば話題に出される知名度の高い説である。
(出典)フリー百科事典ウィキペディア「春秋二倍暦説」(概要)
「一年二歳説」を日本の古代史についてはじめてとなえたのはウィリアム・ブラムセンである。
ウィリアム・ブラムセン William Bramsen 撫蘭仙 (1850-1881)デンマーク人。明治4年 (1871年)に来日、明治8年(1875年)から郵便汽船三菱会社に勤務。学術研究団体である日本アジア協会(The Asiatic Society Of Japan)の会員としても活躍した。
長崎で小島たきと結婚したブラムセンは日本語を流暢に話しただけではなく日本語の読み書きに加え、古文・漢文までこなしたという。日本の古銭の蒐集でも知られる。
明治13年(1880年)に和洋對暦表を出版。これは日本の年号とグレゴリオ暦・ユリウス暦との対応表である。太陽太陰暦である明治以前の日本の暦についても記述されており、ブラムセンの見識の深さがうかがえる。ブラムセンの来日直後である明治6年に明治の改暦がなされ日本もグレゴリオ暦が採用されていた。和洋對暦表は日本の最初の元号とされる大化元年(645年)から明治の改暦の年となる明治6年(1873年)までの対応表となっている。
この和洋對暦表の英語版である Japanese Chronological Tables では欧米の読者のために日本の暦法についての解説が加えられている。この中でブラムセンは第17代(注:神功皇后を含めている)仁徳天皇までの平均寿命を109歳とし、18代履中天皇から34代(注:角刺天皇こと飯豊青皇女を含めている)崇峻天皇までの平均寿命を61.5歳とした。ブラムセンの表は明治時代の資料によるものであるから、現代の定説とは数字が異なる部分がある。
(出典)フリー百科事典ウィキペディア「春秋二倍暦説」(ウィリアム・ブラムセン)
4.『宋書』夷蛮伝倭国
今回の連載「倭の五王」では、この「春秋二倍暦説」を採用しつつ、中国の歴史文献「宋書」を解読することで、天皇系図の在位期間では、うまく説明できない歴史的な背景、例えば、邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の称号を得たときに、神功皇后の治世であったことになるなどがきちんと説明できるのではないかという観点で研究を進めて参ります。
さて、本連載においては、次の『宋書』夷蛮伝倭国を用いて、原文解読を進めて参ります。『宋書』では「東夷伝」として独立しておらず、「列伝第五十七 夷蛮」の中に南蛮諸国とともに高句驪国、百済国、倭国のことが列記されいます。今回は、原文だけご紹介させていただき、次回、「宋書」を読み解き、「倭の五王は誰か?」に迫って参ります。お楽しみに!
宮内庁の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」において、『宋書』の画像資料を閲覧することができます。(※「出版物及び映像への利用(写真掲載・翻刻など)については、図書寮文庫出納係への申請が必要」とのことなので、リンク先より直接サイトをご覧ください。)
画像資料のp33/63をご覧ください。右から6行目の「倭國在高驪東南大海中丗修貢職」から倭人伝の内容が始まり、p35/63の右行目までに記載されています。
該当箇所の全文は以下のとおり。
『宋書』夷蛮伝倭国
倭國在高驪東南大海中丗修貢職
貢職髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽
二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻
丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
(出典)ウィキソース「宋書倭国伝」
皆さま、「倭の五王❶」はいかがでしたか。読者の皆様は、またまた「魏志倭人伝」が登場するとは予想されていなかったのではないでしょうか?古代歴代天皇の長寿命の謎を解くには欠かせない手がかりが書き込まれていたのです。
次回の「倭の五王❷」においては、いよいよ、「宋書」の中身をご紹介し、内容を吟味して参ります。お楽しみに!
【参考文献】
- 宮内庁ホームページ「天皇系図」
- 「古代史日和(【第2の謎】古代の天皇のお年(寿命、享年)はなぜ長いのか)」
- 倭の五王・宋書倭国伝をわかりやすく解説【日本史史料と現代語訳付き】 | みちくさスタディ (michikusa.biz)
- 青空文庫「魏志倭人伝」(陳壽)底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店(1951(昭和26)年11月5
日第1刷発行、1983(昭和58)年9月10日第42刷発行)、底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本 - 宮内庁図書寮文庫資料「三国志(14)」
- ウィキソース「宋書倭国伝」
- コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ) 「宋書」の意味・わかりやすい解説
- コトバンク 裴松之(はいしょうし)とは? 意味や使い方
- 宋書 - Wikipedia
- 倭の五王 - Wikipedia
- 魏略 - Wikipedia
- 春秋二倍暦説 - Wikipedia