短編歴史物エッセイ

倭の五王❶

2024年11月9日

【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
【論文】『邪馬壹國の場所を探る』

令和6年12月4日、神部龍章は学術論文『邪馬台国の場所を探る』を発表。邪馬壹國は、鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけて存在したと結論。最も有力な候補地は、宮崎県の西都原古墳群あたりと推定。「科学的根拠」から迫るアプローチと「文献解読」から迫るアプローチを重ね合わせることで邪馬壹國の場所の特定が完成。

倭の五王❸『古事記』の解読による検証
倭の五王❸『古事記』の解読による検証

『古事記』の解読による検証。宮内庁ホームページ「天皇系図」の古代歴代天皇の在位期間は、基本的に日本書紀の記述に基づいていますが、『宋書』倭国伝の解読による検証でご説明したとおり、これらは倭の五王に関する記録と全く一致しません。そこで、『古事記』に着目し、詳しく記述内容を紹介しつつ、『宋書』との対査を試みます。

倭の五王❷『宋書』の解読による検証!
倭の五王❷『宋書』の解読による検証!

倭の五王のうち、第19代允恭天皇が「済」、第20代安康天皇が「興」、第21代雄略天皇が「武」である。中国古代史書『宋書』の中に「夷蛮伝」があり「倭国伝」はその一部。主な内容は宋朝に対する倭国王の朝貢と任官。倭の五王が朝鮮半島の覇権を視野に入れ、頻繁に宋朝に朝貢し、皇帝から任官されている様子が記載されている。

倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!
倭の五王❶古代天皇の寿命の謎に迫る!

『宋書』に登場する倭国の5代の王は、「讃」「珍」「済」「興」「武」という名前で登場。日本古代の歴代天皇を指しますが、具体的に「どなたか?」は所説あります。本連載では、「宋書」の原文を忠実に読み、歴史的背景を整理しながら、倭の五王の謎に迫り、様々な観点から古代日本の年号が西暦何年なのかを解明して参ります。

邪馬台国の場所を探る❺(最終回)
邪馬台国の場所を探る❺(最終回)

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が何を伝えたかったのかを解明しながら、邪馬台国の場所の謎に迫って参りましたが、大変お待たせしました。女王卑弥呼がいた邪馬台国、その女王国に従う国々を監察する伊都國、そして倭国の規模、さらに、女王国の南方に位置し、敵対する狗奴國の位置関係を作図することで明らかにいたします。

邪馬台国の場所を探る❹
邪馬台国の場所を探る❹

『魏志倭人伝』に詳細に記載されている倭人の生活習慣や倭国の自然、そして諸国を観察する様子に触れた後、いよいよ卑弥呼が登場。親魏倭王・卑彌呼への「みことのり」、下賜された品々とそれらの意義、正始元年以降の出来事を経て、正始8年(西暦247年)卑弥呼が死亡します。そして、最後は彼女の死後の様子が描かれています。

邪馬台国の場所を探る❸
邪馬台国の場所を探る❸

『魏志倭人伝』の内容を吟味するには、中国の古代歴史故事をしっかりと踏まえる必要があります。ある一節の中で「邪馬台国」の場所を書き表していたのです。これを読み解くには、きちんと中国古代の歴史故事を踏まえつつ、後漢の時代には確立していた「周碑算経」の中に登場する「一寸千里法」を使えば解決できるものだったのです。

邪馬台国の場所を探る❷
邪馬台国の場所を探る❷

「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。」女王国より北は、世帯数や距離を大まかに記載することができるが、それ以外の国は遠く隔たっており、詳細はわかりません。原文から謎を解く。作者の意図を読むことが肝要。すぐには行くことができない遠く離れたところにある国々というのは女王国に属する国々ではない。

邪馬台国の場所を探る❶
邪馬台国の場所を探る❶

『魏志倭人伝』の原文を忠実に読み、筆者が伝えたかった事実を解明し、邪馬台国の場所の謎に迫ります。後漢の時代にすでに完成していた「周碑算経」という朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書の原文が示す方法「1寸千里法」等を用い、魏志倭人伝の距離・方位を正確に検証し、邪馬台国の場所の特定を試みる新アプローチ!

女性天皇と女系天皇【後編】
女性天皇と女系天皇【後編】

「女系天皇」とは、母親が天皇家の血筋で父親が他家の血筋の方が天皇に即位した場合を意味します。初代の神武天皇から現在の今上天皇まで126代の天皇が即位され、全員「男系天皇」ですが、第29代欽明天皇は、母親から仁徳天皇以降のお血筋を受け継ぐことで、当時の社会においてもその正当性が受け入れられたという歴史的事実等を解説!

女性天皇と女系天皇【前編】
女性天皇と女系天皇【前編】

女性天皇と女系天皇、一字違うだけであるが意味は全く違う。歴史上、女性天皇は8名の方がいらっしゃった。現在の皇室典範では男系の男子が皇位を継承することが定められているが、これは歴史上の事実が軽視されている。過去の女性天皇がどのような経緯で即位されたのか、果たされたお役目は何かなどについて詳しく解説。

足利義満と勘合貿易
足利義満と勘合貿易

~明国皇帝に冊封を申し出た偉人~
1401年、義満は「日本国准三后源道義」と名乗り、明国に使節を派遣する。明国の第二代皇帝・建文帝から日本国君主として認められる。翌年1402年、明国から詔書には「日本国王源道義」と記され、また、義満自身も「日本国王臣源」として返書を送り明の冊封を受けた。冊封体制の成立である。日本と明国との間で勘合貿易が始まる。

阿部正弘と井伊直弼
阿部正弘と井伊直弼

~二人の米国人に対抗した日本の偉人たち~
老中阿部正弘は、ペリー来航から日米和親条約締結に至る歴史的難局を乗り切った。若くして難局を乗り切った歴史上の偉人だ。ペリーは浦賀の前に琉球王国を訪問していた。大老井伊直弼は、安政の大獄の印象が強い人物であるが、「横浜開港」に貢献した偉人だ。ハリス総領事の強力な主張に対し、既成事実を積み上げて押し切った 。

琉球王朝の歴史
琉球王朝の歴史

~国際貿易で繁栄を極めた琉球王朝~
沖縄では「万国津梁の精神」という言葉がある。万国津梁之鐘にその記録が残ることに由来する。万国津梁とは「世界の架け橋」という意味だ。沖縄の発展や未来展望を語る際には欠かせない。琉球王朝は、国際貿易で大繁栄を極めた。その鍵は明国の朝貢貿易と冊封体制にある。なぜ小さな島の王朝が大繁栄したのか、その謎に迫る 。

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【論文】『邪馬壹國の場所を探る』
倭の五王❸『古事記』の解読による検証
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長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫る!

1.はじめに

 皆さま、こんにちは。神部龍章です。短編歴史物エッセイ(連載)「邪馬台国の場所を探る」はいかがでしたでしょうか?古代中国の歴史文献の解読と当時の天文学・測量学の技術を組み合わせた新アプローチによる謎の解明は、お楽しみいただけましたでしょうか?

 さて、今回から新連載「倭の五王」を開始いたします。ところで、「倭の五王って誰?」と思われた方々も多いと思います。これは、中国の歴史書『宋書』(そうしょ)という書物に登場する倭国(日本)の5人の王(天皇)のことを指します。宋書は、中国南朝の宋の時代(420~479年)の歴史を記録した正史です。南朝宋の60年間の歴史が詳細に記述されており、特に同時代の資料が多く含まれているため、資料的価値が高いと言われています。南朝梁の沈約(しんやく)という方によって編纂され、全部で100巻に構成されてます。宋書の中では、日本に関する記述も含まれており、当時、倭の五王が中国の皇帝に朝貢していたことが記されています。「朝貢」とは、中国皇帝に対して、その諸侯や外国の使いが来朝し、朝廷に貢物を差し出すことですが、卑弥呼の時代にも活発に行われており、「邪馬台国の場所を探る❹」において、卑弥呼が「親魏倭王」のみことのりをくだされたといったお話も出てきました。

 『宋書』に登場する倭国の5代の王は、「讃」、「珍」、「済」、「興」、「武」という名前で登場します。彼らが日本古代の歴代天皇を指すということは、定説となっていますが、「それぞれ、どの天皇を指すのでしょうか?」ということになると所説あります。本シリーズにおいては、『短編歴史物エッセイ作家と教育コンサルタントの観点から、「宋書」の原文を忠実に読み、歴史的背景を整理しながら、「倭の五王」の謎に迫って参ります』と本来は申し上げたいところですが、それでは「古代の天皇様のことはよくわからないので、誰でもいいです~」と感じられる読者の方々も多いと思います。そこで、「(連載)倭の五王」の本当の目的は、『宋書に基づき倭の五王がどの天皇であるのかを特定すると、古代日本の歴史についても西暦何年の出来事なのかがはっきり見えて来るかもしれません。例えば、卑弥呼の時代には、大和朝廷があったのか?そのとき畿内に天皇はいらっしゃったのか?といったことが未だ判然としないのですが、これらの謎を解明することを目指すために「倭の五王」の検証に挑戦します!」というものです。宋書における「倭の五王」の解明を通して、古代日本の西暦を解明を試みるという新アプローチを存分にお楽しみください!

 第1回のテーマは、「長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫る!」です。この謎の解明は、「倭の五王は誰か?」というテーマの解明には欠かせません。

 

2.古代歴代天皇の在位年数等から見た長寿命の実態

(1)宮内庁のホームページ「天皇系図」

 宮内庁ホームページ「天皇系図」に歴代の天皇に関する詳細な系図が掲載されています。本連載においても、この資料を活用させていただきながら、長すぎる古代天皇の寿命の謎に迫って参りたいと思います。まずは、この天皇系図に基づき、初代神武天皇から第33代推古天皇までの在位期間と在位年数を整理してみました。なお、初の女性天皇である推古天皇については、「女性天皇と女系天皇【前編】」で詳しく紹介しておりますので、ご関心のある方は、こちらも是非ごらんくださいませ。

 さて、初代神武天皇から第9代の開化天皇までは、神話として登場される天皇で、実在されていたのは、第10代崇神天皇からではないかと言われています。確かに、紀元前の歴代天皇の系図は、親から子、子から孫へと一直線に受け継がれていると書かれていますが、実際は、そのあとの系図に出てくるように、兄の後を弟が受け継いだり、ときには、お孫さんが受け継いだりしていますので、そのように考えると、最初の方々は神話の世界なんだろうなあと感じるところです。

 なお、ご参考までに、この表の中で、受け継がれ方が他の方々とまったく違う方がおひとりいらっしゃいます。第26代継体天皇です。継体天皇は、第15代応神天皇の5代孫にあたる方で、第16代仁徳天皇以降の直系のお血筋ではなく、とても遠いご親戚の方から選ばれた方です。継体天皇について詳しくは、「女性天皇と女系天皇【後編】」で詳しく紹介しておりますので、ご関心のある方は、こちらも是非ごらんくださいませ。

(2)古代歴代天皇の長寿命

 第10代崇神天皇以降の在位年数をご覧いただくと、60年を超える方が何人もいらっしゃいます。最長は第11代垂仁天皇の99年間ですが、その息子さんの第12代景行天皇の在位年数が60年間、その息子さん(垂仁天皇のお孫さん)である第13代成務天皇の在位年数も60年間です。約220年間もの期間に、わずか3世代の天皇が統治されていたことになります。「そんなことがあり得るのか?」というと、常識的な人間の寿命で考えるとあり得ません。

 さらに、不可思議なことは、まだまだあります。この天皇系図によれば、第15代応神天皇は、父親が第14代仲哀天皇、母親が神功(じんぐう)皇后ですが、仲哀天皇が西暦200年に没したときには、応神天皇が皇子として生まれたばかりでしたので、母親の神功皇后が摂政として統治し、皇后がお亡くなりになる西暦269年までの70年間続いたとされています。つまり、応神天皇は、70歳で即位され、110歳を超えて在位されていたことになりますが、本当にそうなのでしょうか?

 ちなみに、「邪馬台国の場所を探る❹」において、邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の称号を得たのが西暦238年だったと「魏志倭人伝」に記載されている旨の説明をいたしました。こちらの年号は確かです。そうすると、この天皇系図によれば、神功皇后が摂政をされていた時期と重なります。そのため、江戸時代以降、「神功皇后が卑弥呼だった」と唱える説もございました。しかしながら、「邪馬台国の場所を探る❺」でご説明したとおり、魏志倭人伝の原文のみならず、関連する古代中国の文献をしっかり読み解き、その歴史的背景や当時の科学技術なども踏まえながら、忠実に検証を進めると「畿内説」は根拠が薄いこと、また、「邪馬台国の場所を探る❹」でご説明したとおり、魏志倭人伝には、卑彌呼が没したあと、次に男王が立ちますが、國中が従わず、互いに殺し合い、混乱しますが、卑弥呼の宗女の「壹與」という13歳の者が王になり、國中がついに定まりましたと記述されていますので、「神功皇后が卑弥呼だった」とする考え方には自ずと無理があります。

 第16代仁徳天皇は、大阪府堺市にある巨大な前方後円墳で知られる「仁徳天皇陵」で有名な方ですが、天皇系図によれば、この方の在位年数も87年間とかなりの長期間であったことになります。

 なお、ウエブサイト「古代史日和(【第2の謎】古代の天皇のお年(寿命、享年)はなぜ長いのか)」においては、古事記と日本書紀に基づき、古代歴代天皇の寿命の長さについて具体的に言及されていますので、ご参照くださいませ。

天皇名称在位期間(西暦)在位年数
初代神武天皇前660-前58576年
第2代綏靖天皇(神武天皇の子)前581-前54933年
第3代安寧天皇(綏靖天皇の子)前549-前51139年
第4代懿德天皇(安寧天皇の子)前510-前47734年
第5代孝昭天皇(懿德天皇の子)前475-前39383年
第6代孝安天皇(孝昭天皇の子)前392-前291102年
第7代孝霊天皇(孝安天皇の子)前290-前21576年
第8代孝元天皇(孝霊天皇の子)前214-前15857年
第9代開化天皇(孝元天皇の子)前158-前9861年
第10代崇神天皇(開化天皇の子)前97-前3068年
第11代垂仁天皇(崇神天皇の子)前29-7099年
第12代景行天皇(垂仁天皇の子、日本武尊の父)71-13060年
第13代成務天皇(景行天皇の子)131-19060年
第14代仲哀天皇(景行天皇の孫、日本武尊の子、応神天皇の父)192-2009年
神功皇后(仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)200-26970年
第15代応神天皇(仲哀天皇の子)270-31041年
第16代仁徳天皇(応神天皇の子)313-39987年
第17代履中天皇(仁徳天皇の子)400-4056年
第18代反正天皇(仁徳天皇の子、履中天皇の弟)406-4105年
第19代允恭天皇(仁徳天皇の子、反正天皇の弟)412-45342年
第20代安康天皇(允恭天皇の子)453-4564年
第21代雄略天皇(允恭天皇の子、安康天皇の弟)456-47924年
第22代清寧天皇(雄略天皇の子)480-4845年
第23代顕宗天皇(履中天皇の孫、磐坂市辺押磐皇子の子)485-4873年
第24代仁賢天皇(履中天皇の孫、磐坂市辺押磐皇子の子、顕宗天皇の兄)488-49811年
第25代武烈天皇(仁賢天皇の子)498-5069年
第26代継体天皇(応神天皇の5代孫)507-53125年
第27代安閑天皇(継体天皇の子)531-5355年
第28代宣化天皇(継体天皇の子、安閑天皇の弟)535-5395年
第29代欽明天皇(継体天皇の子、仁賢天皇の孫)539-57133年
第30代敏達天皇(欽明天皇の子)572-58514年
第31代用明天皇(欽明天皇の子、敏達天皇の弟)585-5873年
第32代崇峻天皇(欽明天皇の子、用明天皇の弟)587-5926年
第33代推古天皇(欽明天皇の子、崇峻天皇の姉、初の女性天皇)592-62635年
(表)初代神武天皇から第33代推古天皇までの在位期間と在位年数

 

3.魏志倭人伝に記されたある事実

(1)「三国志」裴松之注

 邪馬台国の場所を探る❶」の冒頭で、「魏志倭人伝」という書物は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻に含まれる一節で、作者は「陳寿(ちん じゅ)」という方ですと紹介させていただきました。陳寿の記述は簡約をむねとしたため、極めて簡潔に書かれていたことから後世になり、南朝宋の時代において、「裴松之(はいしようし)(372‐451)」という学者さんが200種以上の史料を精査の上、事実を補うことに心がけ、注釈を書き込んだとされています。

 魏志倭人伝の注釈の中に「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」(魏略によれば、その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す。)という記載があります。「魏略(ぎりゃく)」とは、中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書で、著者は魚豢(ぎょかん)という方です。この注釈は、魏略という史書に記載されたものから背景となる事実を補うために書き加えられたものです。

 「正歳四節」というのは、四季をもって一年とするという意味で、「春耕し秋収穫するを計って年紀と為す」は、一年のサイクルは、「春耕」と「秋収穫」に基づく、つまり、「春耕」から始まって一年、「秋収穫」から始まって一年とするということで、邪馬台国の卑弥呼の時代(つまり3世紀の倭国)においては、中国での1年は、倭国では2年になると言っています。

 宮内庁の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」において、『三国志』の画像資料を閲覧することができます。(※「出版物及び映像への利用(写真掲載・翻刻など)については、図書寮文庫出納係への申請が必要」とのことなので、リンク先より直接サイトをご覧ください。)

 画像資料のp58/67をご覧ください。書籍の左端に確かに「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」と注釈が書かれていることがわかります。

其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒、(注釈:魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀)見大人所敬、但搏手以當跪拜、其人壽考、或百年、或八九十年。其俗國大人皆四五婦、下戸或二三婦、婦人不淫不妬忌、不盜竊、少諍訟、其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族、尊卑各有差序、足相臣服、收租賦、有邸閣、國國有市、交易有無、使大倭監之。

(出典)青空文庫「魏志倭人伝」(陳壽)底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店(1951(昭和26)年11月5日第1刷発行、1983(昭和58)年9月10日第42刷発行)、底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本

 ・・・集会での振る舞いには、父子・男女の区別がありません。人々は酒が好きです。(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す。)敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝みます。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいます。・・・

 「人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいます。」と出てきますが、注釈によって、中国での1年は、倭国では2年になると言っていますので、「人は長命であり、五十歳や四十五、四十歳の者もいます。」という意味だということを示しています。

(2)春秋二倍暦説

 「中国での1年は、倭国では2年になる」という考え方は、一般に「春秋二倍暦説」として知られています。

古代の日本社会においては春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする説で、ヤマト王権の初期に在位したとされる天皇たちの不自然な長寿を説明する際にしばしば用いられる。

古くは明治時代にデンマーク人ウィリアム・ブラムセンが類似した説を唱えたほか、初期の天皇たち(特に第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの所謂欠史八代)の事績や実在性そのものが疑問視されるようになったのに対し、坂本太郎や鳥越憲三郎をはじめとする幾人かの日本人学者が『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることを論拠にこの説を展開した。

根拠薄弱で学説として広く支持されているとは言い難いももの、ある程度の説得力がある事から古代史を語る上ではしばしば話題に出される知名度の高い説である。

(出典)フリー百科事典ウィキペディア「春秋二倍暦説」(概要)

「一年二歳説」を日本の古代史についてはじめてとなえたのはウィリアム・ブラムセンである。

ウィリアム・ブラムセン William Bramsen 撫蘭仙 (1850-1881)デンマーク人。明治4年 (1871年)に来日、明治8年(1875年)から郵便汽船三菱会社に勤務。学術研究団体である日本アジア協会(The Asiatic Society Of Japan)の会員としても活躍した。

長崎で小島たきと結婚したブラムセンは日本語を流暢に話しただけではなく日本語の読み書きに加え、古文・漢文までこなしたという。日本の古銭の蒐集でも知られる。

明治13年(1880年)に和洋對暦表を出版。これは日本の年号とグレゴリオ暦・ユリウス暦との対応表である。太陽太陰暦である明治以前の日本の暦についても記述されており、ブラムセンの見識の深さがうかがえる。ブラムセンの来日直後である明治6年に明治の改暦がなされ日本もグレゴリオ暦が採用されていた。和洋對暦表は日本の最初の元号とされる大化元年(645年)から明治の改暦の年となる明治6年(1873年)までの対応表となっている。

この和洋對暦表の英語版である Japanese Chronological Tables では欧米の読者のために日本の暦法についての解説が加えられている。この中でブラムセンは第17代(注:神功皇后を含めている)仁徳天皇までの平均寿命を109歳とし、18代履中天皇から34代(注:角刺天皇こと飯豊青皇女を含めている)崇峻天皇までの平均寿命を61.5歳とした。ブラムセンの表は明治時代の資料によるものであるから、現代の定説とは数字が異なる部分がある。

(出典)フリー百科事典ウィキペディア「春秋二倍暦説」(ウィリアム・ブラムセン)

 

4.『宋書』夷蛮伝倭国

 今回の連載「倭の五王」では、この「春秋二倍暦説」を採用しつつ、中国の歴史文献「宋書」を解読することで、天皇系図の在位期間では、うまく説明できない歴史的な背景、例えば、邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の称号を得たときに、神功皇后の治世であったことになるなどがきちんと説明できるのではないかという観点で研究を進めて参ります。

 さて、本連載においては、次の『宋書』夷蛮伝倭国を用いて、原文解読を進めて参ります。『宋書』では「東夷伝」として独立しておらず、「列伝第五十七 夷蛮」の中に南蛮諸国とともに高句驪国、百済国、倭国のことが列記されいます。今回は、原文だけご紹介させていただき、次回、「宋書」を読み解き、「倭の五王は誰か?」に迫って参ります。お楽しみに!

 宮内庁の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」において、『宋書』の画像資料を閲覧することができます。(※「出版物及び映像への利用(写真掲載・翻刻など)については、図書寮文庫出納係への申請が必要」とのことなので、リンク先より直接サイトをご覧ください。)

 画像資料のp33/63をご覧ください。右から6行目の「倭國在高驪東南大海中丗修貢職」から倭人伝の内容が始まり、p35/63の右行目までに記載されています。

 該当箇所の全文は以下のとおり。

『宋書』夷蛮伝倭国

倭國在高驪東南大海中丗修貢職

貢職髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授

太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽

二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻

丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王

順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

(出典)ウィキソース「宋書倭国伝」
ゴーヤン
ゴーヤン

皆さま、「倭の五王❶」はいかがでしたか。読者の皆様は、またまた「魏志倭人伝」が登場するとは予想されていなかったのではないでしょうか?古代歴代天皇の長寿命の謎を解くには欠かせない手がかりが書き込まれていたのです。
次回の「倭の五王❷」においては、いよいよ、「宋書」の中身をご紹介し、内容を吟味して参ります。お楽しみに!

 

【参考文献】

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