短編歴史物エッセイ

論文『邪馬壹國の場所を探る』

2024年12月12日

論文『女性天皇と女系天皇』
論文『女性天皇と女系天皇』

歴史上1度だけ皇位継承の危機があった。57歳まで地方豪族であった第26代継体天皇は第15代応神天皇の5世孫で、朝廷からの要請を受け天皇に即位されたが、人々に受け入れられなかった。皇室直系の血筋を持つ手白香皇后との間に生まれた皇子が成人し、第29代欽明天皇が誕生し、ようやく安定した。つまり、欽明天皇は「女系天皇」である。

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論文『女性天皇と女系天皇』
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作家・歴史研究家の神部龍章による論文

 皆さま、こんにちは。作家・歴史研究家の神部龍章です。令和6年12月4日、神部龍章による論文『邪馬壹國の場所を探る』を発表させていただきました。「神部龍章の部屋」における短編歴史物エッセイ《連載・邪馬台国の場所を探る❶~❺》と合わせてご一読いただければ幸いです。

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論文『邪馬壹國の場所を探る』

論文の概要

(1)目的

 『魏志倭人伝』によれば、三世紀前半の景初2年(西暦238年)、邪馬壹國の卑弥呼が魏の皇帝に朝貢の使者を送り、「親魏倭王」の称号を得たとされている。魏の皇帝、つまり、「魏」「呉」「蜀」の三国が並び立つ三国志の時代である。それより以前の後漢時代において、『周碑算経』と呼ばれる天文学・測量学の教養書が存在し、太陽の南中高度を測り、「一寸千里法」という手法を用い、南北間の距離を正確に測定する技術が既に確立していた。

 『魏志倭人伝』において、朝鮮半島の帯方郡から倭国への行程が記される際に「一千余里」等の表現がしばしば登場するが、これらは「当時の測量技術を用いて測定されたものであった」との仮説は十分に成り立つ。特に、周碑算経の手法は、「太陽の南中高度の測定」を基本としているため、知見を有する者であれば、太陽の位置を確認し、地面に棒を立てれば、簡単に南北間の距離を正確に測定できるものであり、それは、倭国への渡航中であっても容易に測定できたと考えられる。

 したがって、『魏志倭人伝』に登場する距離と方位は、すべて『周碑算経』に基づくとの仮説を立て、これらを検証すれば、「邪馬壹國の場所を探る」上で重要な手掛かりを得られるものと思料する。本稿は、この仮説に基づく検証を通じ、「邪馬壹國の場所を探る」ことを研究の目的とする。

(2)検証・考察

 <第1章 後漢時代に成立した天文学・測量学の教養書『周碑算経』>においては、本研究の基本となる一千里の距離について現在の単位への換算値を検証する。次に、<第2章 魏志倭人伝の原文から距離を検証>では、帯方郡から狗邪韓國までの距離七千余里の他、狗邪韓國から対馬、壱岐、九州北岸までの各距離について、個々に検証を行い、第1章で確認した距離単位が正しいことを確認・証明する。

 <第3章 伊都國から邪馬壹國へ>においては、『魏志倭人伝』の記述に従い、行程順に「邪馬壹國の場所を探る」上で、重要なポイントとなる記載内容について、個々に吟味し、検証を進め、検証結果を掲げていく作業を進める。また、『魏志倭人伝』の解読を進める上で、重要なことは古代中国の歴史故事や歴史的背景等を十分に把握していないと正しい解釈ができないことに直面する。そのため、<第4章 魏志倭人伝の記述に関連する中国古代歴史故事>においては、中国故事や歴史的背景等における様々な観点からのアプローチを追加し、検証をさらに進める。

 最後に、「考察」である。<第5章 邪馬壹國の場所に関する考察>においては、上述で得られた検証結果を踏まえ、倭国を構成する国々のうち、最も重要な2つの国(伊都國及び邪馬壹國)について考察し、その場所の特定を試みる。

(3)結論

 最初に、女王国において諸国の監察を担う「伊都國」について考察。魏志倭人伝の記述、有明海周辺における当時の地形が縄文海進の影響を受けていた事実から佐賀市周辺(吉野ケ里遺跡あたり)と結論。

 次に、「邪馬壹國の場所」について考察。「計其道里、當在會稽東冶之東。」(その位置を計ってみると、ちょうど會稽東冶の東にある。)については、『魏志倭人伝』及び『史記』の解読並びに「會稽東冶」に関する検証結果を踏まえ、鹿児島県や宮崎県南部あたりの場所を指し示すと結論。

 「自郡至女王國萬二千餘里」(帯方郡から女王国は一万二千里余である。)について、『周碑算経』及び『魏志倭人伝』に基づく検証結果を踏まえ、帯方郡からの直線距離約12,000里が示す場所のうち、上述の「當在會稽東冶之東。」が指し示す場所と交わる場所があることを確認し、邪馬壹國は、鹿児島県東部(大隅半島)から宮崎県南部にかけて存在したと結論。そして、その最も有力な候補として、直接邪馬壹國の存在を示す遺跡ではないが、集落規模等を勘案し、宮崎県の西都原古墳群あたりと推定。

 本稿の総括においては、第1章から第4章までの様々な観点からの検証で得られた9つの検証結果、そして第5章における4つの考察結果を有機的に統合し、倭国全体図を作図し、「科学的根拠」から迫るアプローチと「文献解読」から迫るアプローチから得た情報を重ね合わせることで、邪馬壹國の場所の特定が完成した。

 

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